『猫ダンジョン荒神(前編)』笙野頼子

田中和生へのDISとか、「新潮」の日記での東へのDISとか読んではいたが、小説はあまり読んだことがなくて。
とはいえなんともどこまでがフィクションなのか分からない内容で、笙野頼子を読むのに慣れていない私はこういうのを読むと例えば、評論やエッセイのようなものでもこの人にとっては作品なのかな、という気がしないでもなく。すべてが延長線上で書かれているかのようなのだ。
そして私が感じる面白さも、たぶんこれは事実に限りなく近いんだろうなあ、と想像したりする所からくるのは否めない。笙野頼子いう歯に衣着せぬ孤高の、悪い言い方をするとちょっとスキャンダラスな作家が書いたものだからこそ、楽しんで読んでしまっている。その日常とどうしても思ってしまったりして。
遺産相続で親族周辺となんかあったらしいのも野次馬的興味があったりするが、一番面白かったのは、猫の看病で右往左往しているその様だ。
たかが猫のためにここまでするか、みたいな話が次から次へと。なかでも一番すごいと思ったのは、老衰した猫のために家のなかに通り道を作ったとか、かな。実物をよく知らないんだがなんかの板を自分で切って、家の中を仕切りまくって、しかし猫が選択していると錯覚させるかのような通り道を作って、猫が変なところへ行かないようにする、という。まあこう纏めるとたいした事ではないように思えてしまうけれども、実際はひとつひとつのエピソードの書き方は飽きさせなくて、さすが。
すごいといえば、神様を幻視してしまったのだって、病気の猫と暮らしていたからこそ、という部分もありそうだしそこがいちばんすごいんだが、この作家は人から見れば自分がどう見えるかなんて充分自覚的で、つまり傍からみれば狂っているかのようであることは分かっている。分かっているということは、じつは狂気ではないのだ。だから神様にはこんな種類があってとか、この小説の話の核であるそのあたりの記述については、あまりたいした感想も生じずサラっと読んでしまったりしたのだが。
ともあれ、野良猫の糞尿泣き声に悩まされていていっそ根絶やしにとネズミ撃退薬みたいなものは無いのかとホームセンターで探したことがある猫に何にも感じない派の私にとっては、理解を超える記述ばかりだったのだが、嫌気もそれほど覚えず読んだ。今まで読んだ猫が出てくる小説はしょもない溺愛馬鹿ぶりばかりで、そんなのオレにはかんけーねー、と言ってみたくなるものが多かったのだが。自分を外側から見ている目をより強く感じる部分があるかないかの違いなんだろうか。まあ、外側から見ている部分が強くあるからこそ、病気の猫との格闘も面白おかしく書けるに違いないのだし。
あと、あくまで猫を不可知においてより捉えているところに、好感もてたっていうのもあるのかも。安易で気味の悪い擬人化をしていないというか、猫のしぐさに勝手に人間の感情をあてこんだりしている箇所が少ない。えさ一つにしても飼い主の思い通りにはならない。思惑を超え、やり方が一歩進んで一歩後退みたいな事を繰り返しているかのよう。しかしまたその工夫にかける情熱はすさまじくて頭下がりはしないけど感嘆するなあ、やはり。
しかしここまで猫に振り回されながらこれでもまだ、ある種の人間と付き合うよりは主人公にとって当然ながらマシなのだろう、言うまでもなく。マシとかそんなものじゃなくそれ以上で、猫を守ることは主人公にとってもはや戦いの一部なのかもしれないが、まあそれはそれとして。
世の中にはペットに入れあげる人が沢山いて、一ヶ月の餌代が、空き缶を拾って自転車にくくりつけてよたよた走っている人の月収よりも多かったりする。このことを人間社会の有様としてよく考えると一見異常とさえ思えるが、しかし、異常のようにみえて、ペットがいることによって孤独からギリギリのところで逃れている人もまた多い。もうただでさえ食べ物ないひとがいるのに犬猫に金使うのなんて禁止とかいったら、かえって困難な人が増えちゃう。これも現実なんだなあ。