『群像』 2010.8 読切作品ほか

ラジオを流していたら大貫憲章さんがでてきて、この人はやはりしゃべりなれているなあ、と島田雅彦と比較し思いました。
しかし、大貫さんの話はCDが売れなくなった話だったのですが、いくら話し上手でも説得力は私にとってはいまいちでした。音楽好きな人でとくに業界周辺の人に多いのですが、音楽を愛しすぎて眼が曇っているのかわかりませんが、音楽が売れないことを決して音楽のせいにはしようとしないんですよね。街歩く人見てくださいみんなイヤホンしてますでしょ、音楽フェス見てください沢山の人でしょ、とか言い出す。
たしかにマルクス的にいうなら、音楽に内在的価値があって売れるわけではないのですが、それにしたって通常、ある商品が売れなければ、まず最初に見直されるのは商品そのものですよね。商品そのものに問題があるのではないか、と。
おおかたの純文学だって、面白くないとか意味がよく分からないとかの理由で売れないんですよ、きっと。
でも、いまの純文学の現状をけなす人が、同時にいまの音楽をけなすかというと、たいていきっとそんな事はしないと思います。音楽が文学より芸術めいているせいかわかりませんが、他の理由を探してあげたりして、なんかアンタッチャブルです。音楽やミュージシャンは聖化されているかのよう。
コールドプレイみたいな進歩のない事やってりゃ売れなくなるの当たり前でしょ、というような言葉を音楽評論家の人から聞いてみたいものです。


文学にも確かに保守的なものはありますけどね。でも音楽の繰り返しほどには退屈ではない。音楽は再演性があり普遍的に作られているぶん、個別性が文学ほどは無い、ということなのでしょうか。
また適当なこと書きました。