『七緒のために』島本理生

やや虚言癖のある友達しか友達と呼べる存在がいない女子生徒が主人公の話。この作家の作品はあまり読んでいないのだが、私にとってはこれがベストで、少し荒くみえる記述もあったように覚えてはいるものの(長い作品なので付箋しながら読むわけではない私が今それはここと具体的に挙げられないが)、それを遥かに上回るだけのパッションを感じる作品だった。
私が一番に良いと思ったのはここだ。何よりこの作品にこめられているエネルギー、熱情。山下達郎が昔言っていた。メロディーやリズムが良くても、音楽の良さを最終的に決めるのはガッツみたいなものだ。というようなことを。
主人公の、他者を希求するその切迫さが、作者自身の切迫さとなって作品ににじみ出ているかのようで、だからこそ、ときおり見られる荒さも、それを勢いとか過剰さと考えればむしろ切迫のゆえでありそれがもたらしたものであり、積極的に許容すべきものなのかもしれない。もちろんそんな過剰さなどなく、作者は冷静な第三者の立場から出ておらず、全てが計算済みで、計算のうえこの主人公のエネルギーを生み出したとしても、それはそれですごい事だ。何かに突き動かされずここまで書けるとしたら。
内容についていうと、作品中に言及される事件からみて、一般的にこの作品を語るならば、孤立する少年・少女、そして何もできない家族。そういうヴィヴィッドな問題で捉えられる作品なのかもしれない。
しかし私は、コミュニケーションの問題として、女子中学生という設定を離れてもこの作品は面白いと思う。人と人が真に繋がるためには、確かに、本心を本当の事を明かさねばならない、と考えてしまいがちだが、しかしそうなのか。
大人になると、嘘も方便とは言うが、それはあくまで方便だから、ときおりは嘘も必要というだけであるにすぎない。我々は大人になっても、大事な人とは、本心から全て明かした上で繋がりたい、そんなふうに考えがちではないか。
そこで、この学校に派遣されるカウンセラーの言う事がなかなかプラグマテイックで面白い。このカウンセラーとどんなやり取りがなされるのかという興味だけでもページをめくらせるものがあり、私にとってこの作品の中心的な読みどころはここだったし、この作品が成功しているとすれば、このカウンセラーを存在させた事だろう。彼がいう事になるほど、こういう力の抜き方もあるのだなあ、と感心したりもするが、しかし、これもまた次善でしかなかったりするんだよなあ、と思う。やはりこんなプラグマティズムで他者と繋がっても、それで一時的に平安な気持ちになったとしても、幸福感から遠いというか。主人公は友達(七緒)からも、私に触れてほっとしたのなら、何が本当でどこまでが嘘なのかなんてどうでも良いことではないか、と突っ込まれるが、そういう事ではないのだ。なにか信仰めいた幻想、相手は本当の事を明かしていると信じる部分がなくては、多分つながれない。繋がっているという感覚は得られない。
だいいち、プラグマティックに他者と繋がれる世渡り上手であれば、もとよりクラスにももっと簡単に溶け込めるはずなのだ。「クラス(=世間)」という約束とか決まりごとというコードで繋がる世界を拒絶した主人公のような人間に、具体的な他者と繋がるのだってコードを取得すれば上手いくよ、といってもそりゃ無理というものだろう。嘘をつく人格をひとつの特性や個性として捉えよというのにしても。そこで、カウンセラーが彼女の言っていること本当なのかもと最後に至って軌道修正を試みるのも面白かったが、とき既に遅し。
これでは主人公は結局、コミュニケーションに問題を抱えたままの救われない小説のように思えるが、確かにそういう面はあって、すっきりと終わる小説ではない。しかし、本当において繋がりたいなんてそれは大人になっても抱えてしまうくらいの病理であって、すぐ解決するものではないのだから、まして中学生という事を思えばこういう終わりしかないだろう。
ラストで注目すべきなのは、自分も嘘をつくのだというふうに、自分を外側から、あくまでそれは「ときに」でしかないにせよ、そういう視点が主人公によって語られていること。むしろここにおける、自分を外側から見る眼をもった「孤立」には、ある種の力や、ボジティビティすら感じてしまうくらいだった。私は、主人公はこの後も生きる人だと思う。
それはこんな描写でも分かる。「(傷について)残る、という医者の言葉がよぎった。」これは、例えそれがほんの少しでも前、将来を見ている人の言葉と解釈した。傷を残してこれから生きていく自分が想念され決意されているのだ、と。