『橋−後編−』橋本治

必読の作品。前編を含めてもう本屋さんには置いてないだろうけど。
しかし私が鈍いせいなのか、橋という題名がまさかあの橋をも意味していたとは・・・後編の後半を読むまで全く気付かなかった。2件の、当時は、かなりセンセーショナルに報じられた殺人事件を下敷きに、というよりはっきりそれと分かる小説である。ちなみに両事件で被告となった女性が両者とも、事件発覚当時奇しくも30代前半であるということを、この小説を読んだ後知った。
まあはっきりそれと分かる小説ということは、ちょっと危ないところもあって、実在の事件・人物とは無関係云々の注意がより必要じゃないかとも思われるが、読んだものとして言わせて頂くと、その心配は少ないかもしれない。
というのは、限度をわきまえた範囲で、被告となった女性にそれぞれ寄り添って書いているからで、もちろんどんな人物だって来歴というものはあるし、時代や世相といったものと無関係ではありえない。異常な人物が起こした異常な事件として左から右へと葬り去ってしまう今の世の中の皮相にたいする、この小説はひとつの異議申し立てでもある。ノンフィクションなんかにもそういう異議申し立てとしてときに優れたものも存在するが、こういうものを読むと文学の想像力というものも、我々にとって欠くべからざるもうひとつの方法だろうと思う。またこの小説を読むまで、両被告の年齢が近いものであることを初めて知った私のように、世間とは逆に過熱するジャーナリズムに無関心であることで、左から右へと葬り去った人間もまた、その異議申し立てに晒されているように感じる。
ちなみに先ほど、限度をわきまえた範囲と書いたが、べつにその犯行を正当化するような所までいっている訳ではないということ。彼女の親たちが彼女達を生むに至ったその生き様まで綿密に書いているが、犯行そのものへ至る部分はあっさりしている。そのへんは実際に裁判も行われていることだからそれを参照すれば良いとも言えるし、あるいは裁判をすべて傍聴したとしても決して理解不能な闇も残るのだろう。彼女達が我々と同じような時代の空気を呼吸した「ひとりのにんげん」なのだという事さえ明らかにしてくれたのなら、もはやそれは読者の想像力で補うべきなのだろうし、あるいは、そこまで想像力を駆使せずとも、彼女達が「ひとりのにんげん」であることが明らかになっただけでも十分なのかもしれない。寄り添うというのは、それで十分なのかもしれない。文学として、村上春樹じゃないけど、卵という壁に潰される弱い側に立つということは、犯罪の原因を世の中に投げ返して彼らを正当化してあげることではなく、同じ地平に立つという事なんだろうと思う。それすら世間はしていない。同じ地平に立って、理解に苦しむことはある。しかし理解しようとしてできないのと理解すらしようとしないのでは決定的な開きがあるように思う。
もうひとつ興味深いのは、彼女達30代前半のその親たちがバブル期の高揚とその崩壊をもろにかぶった世代であることだ。そのことが彼女達の虚無に影響を与えたとは書いていないし、影響を与えていないかもしれない。もっといえば、同様の崩壊を経験しながら結局何もない平凡人の方が圧倒的に多い。親や時代からの影響というのはけっしてイコールで結果が出るものではないところがにんげんの面白い所で、しかし、ただ事実を並べるだけでそこには何か覆しようの無い圧倒がある。原因などという、人が対処できるかのようなものとはまた違う何かが。