『スロープ』平田俊子

メインは太平洋戦争で死んだ伯父の慰霊へと南の島を訪れる話なのだが、マンションの火災なども出てきて現在の主人公の人生がいかに所在のないものであるかも語られる。他にも所々で、伯父が生きた時代と現代とをクロスさせるようにして語り、ときには戦国時代までもそれは及び、時空を超越することで、なんとか死者に近づきたい、救い出したい、そういう意欲の感じられる作品。語り口もとくに斬新ではないが、他の作品には余り見られないような直接さがあり、もし彼だったらどうかとか、同じ19年間なのだ、とかがしつこく振り返られ、面白い試みとはいえる。
だがしかし、少し記述が軽いというか、それほど読んでいて想像力が刺激されるものでもなかったのは正直なところ。言葉遊びとまでは言わないが・・・・・・。とりわけ、当時の戦争の理解があまりに中途半端でセンチメンタルなのはいただけない。リアルさが足らない。読んでいて手が止まり、これは作品そのものを台無しにするレベルではないか、と感じたものだ。
たとえば、「殺すこと、殺されること。戦地ではどちらかを選ぶしかない。」とかサラリと書かれているが、殺されることは選ぶことではない。戦えなくなれば、このまま殺されたりするのはかわいそうと、あるいは敵に捕まるのはいかんと、日本兵は当然のごとく自死を強要されたのだ。さらにいえば、日本軍の多くの兵士は殺すことも適わず、無茶な作戦のもと病気や飢えで死に、こんなところで死ぬくらいならせめて敵に一矢でも、という思いで死んでいった人が沢山いるのだ。殺すことすらも選べなかったのだ。つまり、殺すことも殺されることも選べないのだ。
また、「戦地における「こころざし」とは「勝利」だろう。それは「殺人」を意味するだろう。敵を倒し、戦に勝たない限りふるさとに帰れなかった」とあるが、駐屯や陣地建設など一定の任務を終えれば帰国が許されるケースだってあっただろう。これは極端なケースだがインパール作戦では職場放棄して帰った将校もいる。どうにも伯父に肩入ればかりして、ふるさとに帰ることと引き換えにしてなんとか「殺人」までをもあれは仕方がなかったと合理化しようしようという気配ばかりがここには漂う。
この作品だけ読んで戦争を理解してしまうと恐らく読者はやはり戦争というものはどんな体制のものが起こしたとしても価値中立的に悪いものだし、そこで行われたことは究極的にはどっちもどっち、仕方がなかったこと、というふうに感じてしまうのではないか。まさしくアメリカが行ったことも、日本が行ったことも、この作品上において、「殺す・殺される」に単純化されて、並列的に語られるように。
こういう態度が訪れることこそ、加藤典洋らの自国の兵士慰霊優先論者がまさしく目論んでいることに他なるまい。この小説の主人公がまさしく自らの親類への慰霊の旅で、こういうどっちもどっち的認識にたどり着いているのは、加藤の言う事がどういうふうに帰結するのかを如実に表している。
丁度同じ号に野間宏の小説が載っているが、そこにこういう記述がある。「それは初年兵の彼にとっては敵に対する闘いではなかった。それは日本兵に対する闘いであった」
自国の兵士を慰霊するのはいいだろう。また千歩千万歩譲りに譲って、ふるさとに帰るためだから仕方なかったと、あるいは殺さなければ殺されてたと、何百万の中国人、フィリピン人他を殺したのを正当化してもあるいは心情的にはしかたないかもしれない。国際的には相手にされないだろうが。
ただこの、日本兵日本兵が殺したということを、正当化するのは難しいだろう。せめてここだけは向き合わないと慰霊は真の慰霊にはならないだろう。