『崖の上』佐川光晴

佐川光晴は、これでいい、と思う。文学に愚直であることに愚直に拘っているかのようなこういう作風は他にないからだ。
ただ今作は、筋の運びがストレートすぎる気もした。ひとつは鬱になったきっかけにおいて、今の世の中でこんな純な人間が、というのがあり、もうひとつは、別荘で女と知り合うところにおいて、もう少し悶着があるのではないか、と思ったり。それでも、やはりいつの間にか引き込まれている。作者の筆の運びも、またこの主人公の作業のようといっても良いくらい抑制されている。それがより効果をあげている。とくに温泉を訪れ、怪しさを疑われたときのエピソードがよかった。
きっかけはともかくも鬱になりやすい人間の実相にはいつもながら迫っているし、それだけで支持の気持ちがわく。自分の父親だけが従兄弟達と比べて貧乏だという設定もみのがせない。おそらくはそれが、もっと誇れる自分でありたいという過剰な真面目さへの遠因となっているのだろう。崖の上というおそらくは解決にならない(元の自分に戻るだけ=相変わらずやらなきゃという想念から逃れていない)方法に執着してしまうのも分かる。冒頭での現在の生活の様子からいって立ち直っているとは思えないところもある。つまりは何一つ解決などしていないのだ。あまりにも小説が現実に迫れば、解決など示せなくなる。
とはいえ、現実をそのまま書くのが小説ではないとも言えて、こういう作品にその向こうを見せて欲しいと思う人がいるかもしれないが、今はただ私はこの小説の迫力に負け、この解決できない現実に読者を向き合わせるだけで十分なのだと思ってしまう。
ところで今作は、代理監獄の問題も間接的にとりあげている。愚直などと冒頭に書いてしまったが、この取り上げ方ひとつとっても、佐川光晴の技術的な部分というのは申し分のないものだ。