『みのる、一日』小野正嗣

『マイクロバス』につながる作品で、モチーフも語り口も素晴らしいの一言。
何にも無い地方の集落に住む中卒の体の弱い男性が、「本当の事」を言ってしまわないために日々英語を使ってコミュニケーションをするという設定に唸らされる。つまり言語と自己との緊張関係が基調的なモチーフとして作品をずっと覆っている訳である。言うまでもないことだが、我々にしたって、言語として表出されることによって考えが生みだされていくというのがむしろ常態であるのに、考え→言語という逆さの順序を当然のこととしている。当然のこと、というのは言い換えれば自然である。日本語でいってしまえば、本当の事になってしまう、という恐れはだから非常に身に沁みて分かるのである。しかも、もともとなかったものまでもが本当になってしまう恐れすらあるのだ。
そして、その英語を使うもうひとの目的は、いつか訪れるかもしれない外人の観光客への案内のためである。基調的なモチーフのうえに、さらにモチーフが重なっていく。もはやここでは、外国人しかないのだ。日本人はまったく期待されていない。この絶望の深度。いまの日本で地方に暮らすこと、また、学歴も体力もないこと、その絶望の深度がここに示されている。
というようにして、グローバリズムの進展に伴う地方の崩壊、弱者切捨てに対する抵抗としてベタにこの作品を読んでも良いと思う。そういう事はメディアで常套句のように語られることではあるから、文学としては少し構えてしまうのだが・・・・・・。
日本語が作り出されるとともに作り出された風景=「ふるさと」はここのところ、目に見えて、しかもものすごいスピードでなくなっている。日本語のみが、浮いた状態で保持されてはいるが、一方の風景は失われた。それは、小野くらいの年代の者にとっては、かなり強烈な体験ではないだろうか。つまり子供の頃が昭和50年代あたりに重なるものにとっては。
たとえば昭和50年代にすでに青年になっていた一世代前にとっては、風景を対象化できる年代になっているとでも言えばいいのか分からないが、昭和50年代の昭和の最盛期の光景がなくなるのはそれほどの喪失感はないのではないか。また、それより前の世代であれば、子供のころの風景は、廃墟か何も無いかになるだろう。言うならば小野あたりの世代は、何もない事が喪失につながりやすい。そしてそれは無視することなどとてもできない光景として突き刺さってくるのだろう。そう想像する。当然それは作品のモチーフになるだろう。(私事になるが、転居を繰り返したので、子供の頃の風景にそれほどの思い入れがないつもりであった私でも、中学時代を暮らした土地を訪れたときは、ここまで・・・とかなり衝撃だった。が、20代前半の頃暮らした街の変わり振りにはそれほど心は動かない。)
しかしだからといって、田舎の風景を取り戻せだの、簡単にいえないのも十分分かっている。分かっているだけに、地方の集落においてかなえられない希望を語れるのは、もう、「みのる」のような主人公以外居まい。健常な人間が地方に埋没するなら勝手にしてくれという事になりかねないが、みのるの「希望」に対しては、われわれは何か対応を迫られる。みのるのように少し劣ってしまった者が、かなえられるはずもない希望をさもありうるかのように語るその悲しみを受け止めざるを得ない。理路整然としたものは退けられても、悲しみは受け取らざるをえないのが人間だ。
だが同時に、みのるの希望にたいして、外国人?何言ってんの?、と即座に答えを出すことも難しい筈である。この小説にでてくる所長のように、曖昧な態度を取らざるを得まい。が、もしかしたら、そのような曖昧な態度が、限界集落の出現といわれるような地方の惨状を作り出してきた、といっても良いのかもしれない。が、他にどうすればいいのか?われわれにこの所長のように生きる以外に何かあるのか。
きっと狭義の意味で、地方の惨状というのは自然な出来事なのだ。止むに止まれぬ事であり、健常なクレバーな人間にとっては、そんな土地にしがみつく前にとっとと出て行くに限るし、行かざるを得ないのだろう。いうなれば、われわれは、地方の隅々に至るまで、何より生きていくために、クレバーであることを強いられてきたのだ。(そしてインターネットはそれを加速する。)
みのるの日本語へ抵抗は、きっと間接的にはここへ向けられているのだろう。そういう自然への抵抗として。そして、彼のみではなく、この小説の反語を多用した語り口も、日本を隅々まで覆うクレバーさ賢さへの抵抗でもあるだろう。地方問題を語るクレバーなシンクタンクの人達はこういう小説はきっと時間の無駄とか言っちゃうだろうし、残念ながら小野のこのような小説が日本で大絶賛されて何十万部も売れるという事はないだろう。
つまりは、ここでの抵抗は自然という流れへの抗いでしかない。せき止めではない。そんな事は百も承知で、しかし、経済学でも社会学でもないところの、文学にしかない意味がもしあるとするなら、それしかない。たとえばアメリカにはいつまでも南部に拘った作家だっていると聞く。