『ビッチマグネット』舞城王太郎

私にとってはカネを払いたくない評論が載ることが多い『新潮』だが(しかも連載で)、『新潮』を切って捨てれない理由のひとつが舞城王太郎の作品が定期的に載る事だろう。
今回も前作と似て、中心に中高生の恋愛のドタバタが描かれるが、あれほど極端なドタバタ劇が繰り広げられるわけではなく、よりリアリズム寄りになっているのが特徴のひとつ。誰かがいきなり死ぬとか超常現象的な部分も全くない。書かれている内容などは、わりとありふれた思春期の悩みも多く見られ、ここまで来ると従来の純文学作品とそう違わないのではないか、と一瞬思う。とくに私のように読みが浅い人間などはそうかもしれない。
しかしそんな読みが浅い人間でも確実に違うなあと思うことがひとつ。その文体である。「って」とか「つか」で始められる文体は、他の純文学作家では実現しえない言語空間を現出させている。むろんこれは今の中高生の言説空間そのままではないだろうが、その空気をいくらかでも伝えるものとはなっているのではないか。かつて山崎ナオコーラをヘタかもしれないが、より現場にちかい空気が感じられると評したことがあるが、同じような意味で私にとって舞城は貴重な作家である。
山崎ナオコーラなどと比べるものではないことは、もちろん付け加えなければならないだろう。作家としての基本的な実力を云々するような残酷な事はせずに、両者を大きく隔てるものを上げるならば、意識が全く違うだろう。出そうとして出しているものと、出てしまっているものと。舞城の方には「自然に書く」という意識はないだろう。
そして意識が高い分、舞城の場合、その小説にこめられた(書かれた)メッセージ的なものよりも、外部の理由がつねに気にされてしまうだろう。つまりそのメッセージについて云々するよりも、そのメッセージを掲げた舞城のほんとうの意図は何なのか、が探られてしまうのだろう。
私にはそういう深い読みはもとより出来そうもない。例えば、彼が中高生のことを好き好んで描くのはどういう理由があるのか、とか・・・・・・。
それでもあえて私の感想をいえば、彼は、言語と思想がより分離していない状態の時期をより好んでいるのではないか、と思う。言語までをも思想の対象として外部化してしまったのがポスト近代である現代だとすれば、より近代に近い、言語に疑いを抱かない状態として中高生を選んでいるのではないか。中高生のころは、考えが言語として表出するという虚構に疑いを抱く人は少なかっただろう。言語こそが考えを生み出しているのでは、と逆立ちする人は少なかっただろう。
そういう自然な表出のなかに、ポスト近代的なところが見られるのが面白く、この作家が貴重である所なのだ。ところどころで、自己を対象化したような言動および内省が見られる。自分がどう考えるかよりも、自分をそのキャラと見なせばどう考えるのが妥当か、といった所から考えたりする。とくに心理学のテストを受けるところなどにそれが極端に出ていて、自分をまず「鬱」と前提して行動する。これは結局うまく行かないのだが、その言い訳は「私、まだちょっと、うまくのれないみたいですから」だ。
が同時に、それ以上に今作は、キャラとかネタを前提とせずに、たんに自分はどう考えるか、という記述の比重が多いのに考えさせられる。自分の進路や、恋愛や、家族のあり方の悩みなどは、まったくキャラなどということは前提にしていないように思える。ありふれている部分さえある。
そしてそのなか、つまりキャラなどを前提としない考えの表出のなかに、「人間は単純じゃない」とか「メタ的視点も大事だけど、演技にほんとうの自己を埋没させてはいけない」(←そのまま引用じゃなくて大意)とかといった事が主人公によってさらりと言われることも注目される。作家自身はどうか分からないが、少なくとも主人公はポスト近代的な行動から距離を置いているように見受けられるのだ。
そういえば、主人公の父親にしても母親にしても父親の愛人にしても、キャラといわれるような単純さからははみ出だしている。彼らは主人公の予想をとことん裏切って行動する。弟も、「ビッチマグネット」というキャラに自分を当てはめようとするが、ビッチそのものの定義がはっきりしない。主人公などラストで、自分は服装のセンスがイマイチだと告白する。これを私は、自分をキャラに当てはめて行動することなんて結局なかなかできないもんだよ、という告白と読んだ。
まとめると私の感想では、新しい文体にて近代的な、古典的とも言って良いかもしれない心情を描いた小説、しかもある部分では、新しい文体にてポスト近代的な人間を描いても、近代的な心情からそう簡単に逃れられるものではない事も示してしまっている小説という事になるが、言うまでもない事だが、これがこの小説の理解としてとんでもない的外れの理解かもしれない事は付け加えておく。