『新潮』 2009.9 読切作品

どうでも良い話をするような知り合いが少ないもので、そのせいなんでしょうか、今更そんな事で驚くなというような、というような事に、この歳になって驚いたりします。
最近そんな事がありまして、夕飯の主食がパンであることが許せない考えられない、という人が身近にいることを知りました。いや一人だけなら、まあそんな事もあるかなあという感じだったのかもしれませんが、話の輪の中にいた別の人に「夕飯がパンだって別に構わないよねえ」と同意を求めたところ、「私もパンは駄目」と言われ仰天しました。
いわく食べた気がしない、そうです。
一人暮らしの頃5年くらい、賞味期限間近の食パンをずっと夕飯の主食にしていた私はどうなるんだろう、と思いますが、殊更異人という目で見られても何なので、その時はそんな過去は封印しました。
マックの100円バーガーだけでどれだけ腹いっぱい食えるかと挑戦して6個で断念した事がありますが、そのときも私にとっては回転寿司を15皿食べるのと同じくらい「食った気」がしたのですが、そういう事とは違うんですよね。違うのだという事は分かりますが、コメで無いと駄目という感じは分かりそうにありません。
また、これは確実に私だけの感覚だとは思いますが、コメよりもパンの方がより少量で「食った気」がするんですよね。これはいわゆる腹持ちの違いという奴でしょうか。
そしてもうひとつ。炊き立てのゴハンの香りにはそれほど心動かされるものは無いのですが、パンの場合は焼き立てではなく多少冷めても最初の一口で鼻の中に何ともいえない小麦の良い香りが漂ってくるんですよね。


いつもどうでも良い話なのですが、今日はよりどうでも良い話にしてみました。