『ジオラマ』吉原清隆

断固支持。この作品は、これまでの2作品がたまたま出来が良かった訳ではない事を証明した。集英社は良い作家を掴んだものである。(この作品があると無いとでは、今月号の『すばる』はまるで違う。)
彼の小説は名づけるならば"生活史"小説である。たまたま今月のすばるにあったような他の小説とちがって、それまでその人を形作ってきたもの=背景、のよく分からない高等遊民の愛だの別れだのを中心に描かない。まず職業がある。というか生きていくために何かをしている。何もしなくても生きていけるような人物などお呼びではない。だからこそ面白い。作家を目指すなら、書く前に読め、読む前に働け、とかそういうことを言いたくなる。
今回は、前作での町工場とならんで「下」にある職である、新聞配達店に勤める中年女性を描く。そのディテールが良い。勧誘をめぐっての邪険のされ方とか、いかにもあるだろうなあ、という。前作での旋盤がコンピュータ化されるあたりも詳しかったのだが、この作家はフィールドワークが優れてるのか経験があるのか・・・・・・。雨の日の新聞の取り扱いをめぐるいざこざなども面白かったのだが、客にエコとか言われてビニールパックを拒否されたりして、そんな解決しようのないどうしようもない正論を吐く人間を描くところにユーモアが出ている。つまり人間臭い。勧誘相手が主人公を人として扱いをしないところなども、人間として人間臭いのだが、つまりはカントがあれだけ口をすっぱくして言わねばならなかったように、人間というのは放っておくと他人を人間としてみないものなのだ。
とまず面白かった所を先に書いてしまったが、テーマ性を強く感じさせる作品である。そのユーモアたっぷりの淡々とした著述の影に隠れながら、この作家は志が高いようだ。
何しろ、この女性と対比して章を分けて描かれるのが、戦争末期、大量の爆弾を積んで片道切符の飛行機に乗り込む少年兵なのだ。それにまた、主人公の女性は、靖国神社らしき所まで行き、例の戦争博物館まで行ったりもする。作品中にはっきりと"靖国"と書かれている訳ではないが、たぶんそうだろう。私は行ったことがないので想像だが。
つまりこの作品を読めば多くのひとが、この戦後というものが、戦争体験というものを継承しているのかいないのか、まったく断絶しちゃってるのか、そういう事を考えざるをえない。
もう一人、この主人公と対比するキーパーソンも出てくる。彼は新聞配達店に古くから勤める頑固な障碍のある老人で、戦争には参加していないが、戦争というものを遥かによく知っている年代である。頑固とはいったが、自分の生き方を譲らないという意味であって、普段の態度はじつに温和で、その温和さは、彼が、戦争の悲惨さをよく知るだけに、簡単に人の死ななくなった戦後の空間について肯定的である事を物語っているかのではないか。(彼は街頭右翼に注文をつけたりもする。言うまでも無いが、街頭右翼の多くは戦争など知らず、戦中を微塵たりとも引き継ぐ存在ではない。)
その老人は、主人公の中年女性と対立する。つまりは、戦争体験を引き継いで今の良い世の中をこのままよくして行こうと感じている老人に対して、戦争体験を、特攻少年を、まったく引き継がないものとして主人公女性はある。彼女は靖国神社に行っても表層的な感慨しか持たない。
しかし、ポイントは、だからといって、物事を深く考えず、戦争の悲惨にも心が及ばないこの主人公に実存が無いという事ではないという事だ。戦争体験が何だって言うのかね、というくらい、今だってじゅうぶん生き辛さは確固たるモノとして我々を取り巻いてるじゃないか、という。説得力は、ある。けっして特攻少年の充足感を充足としてはいけないのだが・・・・・・。
そしてもうひとつポイントは、この主人公女性が、落ちていた羽毛から、「とり」としか言わない所だ。ああ、うんうんそうだよね、すげえぞ吉原!と、この小説中最大に面白かったところなのだが、本当に女性の多くはこういう言い方をする。電線に止まってるのはカラスほど大きくなければ、皆スズメだったりする。ムクドリだろうかシジュウカラだろうかヒヨドリだろうか、そういうことは考えない。高い空を翼広げて気流に舞っていれば、間違いなくそれはトビではなくタカかワシだ。多摩川にはコイはいても、フナやボラはいない。
こういう知のあり方に対して、あらゆるものを分類して正確な名前で呼ばなければ済まないような男性的な知は、世界に対する支配の欲望の変形なのではないか、とも考えたりする。ということはつまりそういう権力的な知は、戦争とも無縁ではない。かつての男性どもは、まず敵兵か友軍かの区別はむろん、おなじ陸軍の制服を着ていても、相手の所属と階級を知らなければ話も進まないような空間において、戦っていたのだ。徹底した分類知。
もちろん単純に、こういう女性主人公の知のあり方が、抵抗への突破となるとか、そんな事はいえない。女性たちだって、銃後から、あるいは銃後だからこそ、かつての戦争では熱心だったし、現代においては靴だのカバンだのの分類欲は相当なものだから。身の回りのものを公的な位相から捉えないというより、たんに関心の向く方向が違うだけかもしれない。
とはいえ、継続的ではないにしろある局面で、とりはとり、人は人という単純さによって、社会が動いたこともあったのではないか、とかそう思ったりもするのだ。
最後にこの小説について冷静に書き足しておくと、話の運びが少し強引かなとか、主人公の心情についてそれだけで後悔しないことがこんなに強く醸成されるのか、とかも思ったことは確かである。だから万人に勧められるとは言い難かったりするが、ラストがまた良いんだよなあ、やっぱ読んで欲しいものだ。