『紀行特集 すばる散歩部』

誰の企画か知らないが、どういう意図があったのだろうと首を傾げる。むろん責任は企画にGOサインした編集長にあるのだろうが、とにかく、藤野可織のもの以外は少しも面白くない。(告白してしまえば、藤沢周のものだけあまりまともに読んじゃいない。この人のナルシズムがどうしても気になって・・・・・・。俺って駄目な奴・・・・・・。)
藤野も自分語りはしているものの、その凡庸さのせいかどうかは分からないが、自分というものが希薄で、結果として色々見て回ったものがこちらにダイレクトに伝わってくる。紀行文など余り読まないので、これが紀行文として良いことなのかどうかは関知しない。
なかでもひどいのがモブ・ノリオだろう。俺の人間臭い大阪を返せ、とそういう事が言いたいらしいが、文体もひどい。絶対自分に正義があると言わんばかりの見下しに満ち溢れた言いがかり。土地建物の問題で揉めたりするとよくいるでしょ?たんに役所の担当者ってだけの弱弱しい人に居丈高に詰め寄る正義の人。あんな感じです。
下北沢守ろう運動みたいな余所者の勝手な思い入れという側面も感じる。飼い犬のクソを放ったまま立ち去る光景に感じ入るのは勝手だが、玄関の目の前でそれをやられた人の事を考えていない。シモキタでいえば、道が狭く雑多なせいで、危ない思いや不便さを感じる地元の人もいるだろうし、バス運転手やタクシードライバー、納入業者も苦労しているだろうが、彼ら下層労働者よりよっぽど上層にいる文化人ども(の一部が)町並みを残せという。あれと一緒だな、これは。弱者が見えてない。(豊島区や新宿区でも、文化的な意味合いで残されているかのような古く道の狭い住宅密集地が残されているが、大地震で火事とかになったらどうなるのだろう。)
ポリティカルな図式を優先してしまうから、モブ・ノリオには場合によっては弱者が見えてないというのがよく分かるのが、ベンチの仕切りに憤る部分。浮浪者を思う余り、足腰の弱いお年寄りの姿が見えてないのだ。ベンチの仕切りは浮浪者を追い出してなんかいない。なぜなら彼もまた座ればいいからだ。彼が寝ずに座れば、2人の足腰の弱い人が休めるのだ。電車の座席で寝る人は咎められて当然で、それと同じだけだ。
大阪の話なのになぜか文化村通りが延々攻撃されてしまうのも、東急=大資本=悪いというポリティカルな図式に囚われているからこそ。スペインとは縁もゆかりもないのにスペイン坂と名づけ、小じゃれた店を集め集客しようとした西武資本の方がよほどコマーシャルに街を変えたのだから醜い。文化村通りなど池袋のサンシャイン通りみたいな通称に過ぎず、命名することで街をデザインし直したわけじゃないからね。
というか地名の命名で言えば、コマーシャリズムとは関係のない自治体による命名のほうが、はるかに薄ら寒い醜悪なものが多い。みなとみらい、とか。いやこれは「み」が頭韻で格好いいか。美しが丘、希望が丘、西東京市、なぜかひらがなのふじみ野市・・・・・・。施設だとミューザとかマリエンとか、ふれあいハウスとか、有名なのではセントレア空港?だったっけ。bunkamuraなどよりずっと私はそっちのほうが気になってしまうのであった。