『ヘヴン』川上未映子

久しぶりに寝る間を惜しんだ。読み終えたとき(正確にいえば4分の1くらい読んでそれからずっと)、ここに何も書く気がなくなってしまったそんな作品である。とにかく圧倒された。あまりに優れた作品は言葉を失わせるものらしい。だから余り考えずに、とりあえずといった感じで書く。書かせていただく。
宗教による救いと、虚無主義との狭間に主人公を置き、少し図式的なのかと感じさせるのもつかのま、ある種あっけない儀礼的な無関心さによって主人公は解放される。まだ迷っている主人公が最後になって主治医とのあいだで交わす笑いは、思わずもれてしまうといった、それまでこの小説のほかで見られたどの笑いよりも解放されてただそこにある、といった感じになる。このカタルシスに打たれた。深い関係にあるわけでもない人間にいちばん動かされるというのは、どういうことなんだろうと思うが、これまでの自分を省みればああそうなのだとしか言いようがない。
そして、他の人がどこに力点をおいてこの作品を語るか私には分からないが、まま母と主人公との距離感が出色で、血は繋がっていないがまた他人ではない放っておけない関係としての微妙さにずっと引かれながら、この小説を読むことになる。主人公も揺れ動き、母親もまた揺れ動いていることが分かる。中学生の一人称語りなのではっきりそれが見えるわけではないが、母親の身内の葬式などでの疎外ぶりや、日々の暮らしの気だるさから、それが分かる。そして主人公も母親の葬式に請われたでもないのについて行き、母親も礼をかえす。こういう行動のひとつひとつが微妙さをじつにうまく語っていて、そして最後にこの二人が強力に繋がる。いったいこの強さはなんだろう、と思いつつ、しかしこれも説得力があるのだから仕方がない。「手術しなさい」とは、この母親の位置にあるものしかいえない言葉だろう。
もうひとつ書いておきたいのは、生まれつき弱さを持ったものと、弱さを選び取ったものとの相克だろうか。読むものとしては当然、弱さを選び取った(ということは捨てることもできる)コジマの姿勢に傲慢さや虚偽的なものを感じるだろう。いつ主人公との間に亀裂が走るかと、緊張感を持つことだろう。しかし当然と書いたが、コジマは安易に否定されるわけではない。この小説はどこぞのラップではあるまいし教訓的なことなど書かない。なぜならば、結果として主人公を救うきっかけとなったのは、選び取ったが故の強さに由来する彼女の強い行動であるし、主人公も彼女のために泣き、コジマは最後まで友達と思い続けるのだ。
小さい言葉使いから、さきをどんどんと読ませる構成まで、この小説について技術的に誉めたい箇所は限りなくある(イジメの凄惨さも目を瞠るし読みどころだろう)が、いま、そういう技術的なことはあまり書きたくない。
ただこれは掛け値なしに、何年に一度の作品だ、と確信的に書いて終わりたい。