『カメレオン狂のための戦争学習帳』丸岡大介

"書を捨てて街にでよう"という言葉が昔あったことなど知らない人が増えてきてるんじゃないかと思うけど、あえて言いたい。"書を捨てて街に出て、本屋に行って『群像』6月号を買おう"と。あ、もう売っていないか。いや今はアマゾンがあるんだった。今見たらなぜかまだ6月号が新刊で残っている。買おう。この作品のために。
というそのくらいの傑作ではないか、これは。(読み終わったばかりでこれを書いているので、ちょっと冷静さを欠いているかもしれないけれど。)一年に一回あるかないかくらいの傑作で、そりゃ群像新人賞は一年に一回しかないんだけれども、全ての作品を含めてという意味であって、群像新人賞という事でくくれば、10年に一度的なものではないのだろうか。(最近『群像』読み始めたから、10年もフォローしていないので、テキトーな事を言っているんだけど。)
コトバというもの、そしてコトバによってなされる政治というものがいかに面白く、豊穣なものであるかを思い知らされる。引用、だじゃれ、言い換え、たんなる言葉遊び、メタファー、緻密な分析的記述。そして、政治。標語・憲章、絶対的権力、追随、妄信、妥協、二律相反、ステロタイプな物言い、物分りの良さ、権力を帯びる反権力闘争などなど。
途中、君が代斉唱をめぐる左右両派からの物言いが出てくる箇所があって、ああ政治的なコトバってこうだよなあ、とまさしく現実そのままの様に大いにうなずいたりするのだが、小説そのものにそんな深刻な雰囲気があるわけではなく、たとえば不良出身の生徒会長による自由化闘争みたいなものに見られるようなパロディ的なところの方が多い。むろん現実の滑稽さを示すためにこそ、パロディはあるわけだが、主人公をうまくニュートラルな位置において振舞わせる事によって、この小説は、様々な箇所に「政治」を発見しその滑稽さを示すことに大成功している。そう。あらゆる人間はすでに政治的存在なのだ。現実においても。同寮の同僚教師である加藤なんかは典型的な官僚として、寮の同室の鈴木などは典型的な愚直な党員として分かりやすいが、もう一人の同室の柳田のような人間もまた典型的な小市民だろう。彼は反権力的な内面をもちながら、ぬくぬくと寮にいることを享受して、そしてまた時に、その矛盾を心理面で隠蔽するかのごとく、根本的な問題にならない程度に寮の規則に反抗してみせる。自民党が大嫌いでありながら選挙にもいかず、でも選挙特番は大好きみたいな奴である。じっさいに国家が危険な相貌を帯びたとき、鈴木のような存在ももちろん危険なのだが、いちばん罪があるのは柳田のような奴だったりする。当然主人公は、けっして相容れない柳田と鈴木を間で、柳田の側に立つこともできない。
そして後半になるといよいよ暴走族までもが、自分達の正当性を極めて政治的なコトバで語りだすのだ。
とか書いてもなんのこっちゃでしかなく、この小説の面白さは私の力ではどう説明しても分かってもらえないと諦めつつあるが、一番面白いのは、その記述のされ方だ。暴走族の暴走行為がもたらす地域社会への影響について書くのかと思えば、いつのまにか、暴走族のOBへの挨拶や彼らの近況のバカ話になってしまっている。最初読んだときはなんじゃこりゃ、青木淳悟っぽいなあ、と思っていたのだが、読み終わったときは、こりゃ『重力の虹』じゃないかと。あれほど支離滅裂ではないけれども、そう思って選評を読んでいたら、松浦寿輝が「ピンチョン」て書いていたよ。
で、今また『やぎ少年ジャイルズ』というのも浮かんできた。でもこうして先行する著作を語るのは、決して貶める意図など毛頭ない。想起しただけで似ているとかそういう事でもないし、この作品には今現在の日本だからこそという要素に満ちているし、何より私は感謝の気持ちで一杯なのだ。
とにかくこの面白さは、私の力では言い表せない。笑える箇所多数、とだけ書いて締めておく。「レズビアン独裁」!!


(そういえば受賞の言葉もすごいな。現代がいかに隠された戦争に彩られているか、それを書いたと思っていたら、グルジア紛争とかに言及しているし。まったくもう。)


※訳わからん所があったので、改稿・増補しました。