『漱石深読−「坑夫」』小森陽一

評論としての面白さとは別のところに言及したいので評価不能としておく。というのもちょっとこの評論の「注」に文句つけたいのであるが、小森陽一という人は湯浅誠のいう「すべり台社会」という事の意味を理解しているのだろうか。湯浅がいう「うっかり足を滑らせたら」というのは、ちょっと借金をしたり、少し長めの病になったり、転職でうまくいかなかったり、といった事態、つまり主観的にも客観的にもそれだけでは人生が台無しになるほどでもないだろうなあ、という事態をさしているわけで、主観的な表現としてあくまで「うっかり」なんだけれども。
漱石の小説の主人公のように家と家族を捨てるというのは、「うっかり足を滑らす」ことでも何でもなく最初からすべり台と覚悟のうえ、すべり台に乗っているのであって、家と家族を捨てれば、高度成長期だろうがバブル期だろうが、コイズミ後だろうが、どんな時代だろうが、そりゃ「すべり台」になるだろう。家と家族を捨てた人間が最低の労働条件の仕事につかざるを得なくなるような社会のことが「すべり台社会」ならば、ずーっとこの世はすべり台社会だったわけで、あえてすべり台社会と今の現実を形容することの重大性が全く見失われてしまう。つまり、ある意味、湯浅誠が今訴えていることはもう漱石が書いていたなんて言い方は、湯浅氏にたいして失礼ですらあるだろう。
「山谷」や「釜が崎」はというすべり台の落下地点は、小泉以前にもあったのだ。そして、そこへの距離が近くなったのはつい最近のこと。
むろんその近さが、派遣業が禁止されていなかった昔と類似している面はあるだろうが、それは漱石ならずとも、当時の労働者事情を記したような書物には書かれていることではないか。それとも、漱石しか当時こういう面の問題を指摘しなかったとでも言うのだろうか。だとしたら流石漱石と驚嘆するのだが、そうではないからこそ、つい最近まで規制は規制としてあったのではないかと思うのだが如何。