『すばる』 2009.5 拾遺

以前、『新潮』の連載で四方田犬彦氏が言及していた若松監督の連合赤軍の映画がWOWOWで放映されたので見たのですが、同じあさま山荘事件を扱っていながらこんなにも違うかっていうくらいに、全く違う映画になっていましたね。何と比べてかというと、原田なんとか監督の警察側からみた映画と比べてなのですが。
警察側からみたほうの映画は、たんなる警察ヒロイズムであり、またコメディーでもあり、あんなもの劇場で見たら"何を好き好んでこんなものを"と腹が立って途中で席を立っただろうというものでしたが、若松監督の映画では途中重信房子の親友であった女性が気が触れてしまうあたりで全然違う理由で見ているのが辛くなってしまいました。
まあ録画だったので、途中で止めて翌日続きを見ることができたのですが。
そりゃ警察だって一所懸命だろうし彼らも人間なんだから、彼らから見た物語があっていいとは思います。そういう意味では片方の映画にとってあさま山荘事件なんてのは取替え可能な題材でしかないのでしょう。しかし私は、過激派が起こした他の犯罪はともかくもこの事件だけはそういう扱いをしてほしくないという気持ちがよく分かるのです。あれはそれくらい固有であり特殊であり、大きい出来事であった、と。これは別に学生運動の神話化というのとは違うとも思います。だってまだ乗り越えてない気がするからです。できごとのあらましについて理解はできても了解不能の壁として厳然とそびえている気がします。神話と違ってだから語ることすら出来ない。
時間的に長い映画でしたが、若松監督はおそらく考えたのでしょう。彼ら過激派集団のその大義がどこにあったのかをきちんと描かねば話にならないと。60年代に政治的にどういう事があり世の中はそして学生達はそれにどう対峙したか、から始めて、過激派集団が集団としてどのような変遷を経ていったのかを語らねばならない、と。しかし私は、これでも必要最小限に過ぎないくらいではないか、と思いました。映画ではどうしても大きな出来事を中心に描くので、リンチを扱った場面では毎日のように人が死んでいたようなイメージができてしまう。しかし私が恐ろしいと思うのは、その間にもっと日常の時間がたくさん流れていたという事です。最初に起きたリンチ殺人から、最後のそれまでの間には2ヶ月以上の時間がある。その時間、彼らは訓練したり基地を修繕したりだけでなく、メシを食い、勉強会を開き、語り合っていたと思うのです。この時間は長いです。
ところで、リンチでは、古参の人間や、ナンバー2、3の人間をどうしても排除したくなってしまうというどの組織にもあるような面があり、また、やらなければやられてしまうというあの恐ろしい集団意識の作用も見られました。また永田洋子をはじめ、女性達に自分より美しい者への嫉妬などがあったのではというのも、これも随分語られた事のようです。しかしそれら以上に私が考えてしまうのは、どうみても皆、真面目に革命や、殴られる者の事を思って、良かれと思って殴ったり縛り上げているという事実についてです。これほどまでに恐ろしい「善」というのもあまり無い事ではないでしょうか。恐らくだからこそ、30にもならないような人間が沢山の仲間を殺して、それでもまだ何かを続けられるだけの神経を持続できたのでしょうが。


いつもここでは下らない事を単なる前置きていどにしか書いてませんが、今日はこっちがメインかもしれません。
とっくに本屋に無い号について備忘的に。