『夜に知られて』上村渉

新人らしからぬ、といった印象。ただこの小説も、読者の想像に任せすぎているきらいがあり、評価はすこし落とした。
任せすぎている、というのは、結局この手紙の主である未熟な先生は、決裂した不良少年と邂逅しているらしく、いわば一番難しい部分を、われわれは想像せざるをえなくなっているのだ。
それでも、章毎に手紙の内容と、その手紙をもって行動する主婦とを配するという構成をとり、また、その主婦の行動(主観)に沿い物語は進みながらも、しかし小説のテーマ的には主人公ではない、という小説的凝り方が、先を読ませる十分な力となっている。ところで思い出すに、主観者が主人公ではないというのは、新人賞受賞作によく似ている。新人賞作品で相手の所へ乗り込んだのは確か在日ブラジル人男性であり、今作で乗り込むのは、大学教授の妻。そして二人とも小説的には、重要人物ではない。だが、かように似ていても、それでも読ませるのだから、相当力があるのだと思う。
しかしこの作者は、二作連続でどうしてこういう構成をとったのか。私にとっては、単純に、主観者の行動をその内省を交えて時系列にそってただ書いていくというリアリズム的退屈さから離れ、小説的楽しみを与えてくれるというだけで、それだけで歓迎したいのだが。つまり、たんに読ませるための工夫としてだって、そういう工夫すら試みようとしない作家が沢山いるのだから、大歓迎なのだ。
ただもしかしたら、作者は、中心点をずらすことで、よりリアルさに近づこうとしているのかもしれない。私にとっての私より、他人がみた私の方がリアルであるといったように。あるいは、リアリズム的な自分語りが、小説家が紙にそれを起こす時点でいやおうにも付随してしまううそ臭さが嫌で、テーマの中心を伝聞的なものによって語らせているのか。
小説の内容に話を戻すと、テーマの中心のひとつである手紙の主のおばもあまり魅力的とは思えないしその生き様もやや類型的、また、冒頭でも言ったが、不良少年とのコミュニケーションにまつわるあれこれも消化し切れていないような気もする(そう簡単に解決したり消化できるものでもないのだろうが)。
だがそういう欠点がありながらも、読ませてしまう構成の力といったものを見せ付けられ、やっぱ小説って興味深いなあ、と思う。
むろん、この作者に確かな観察力があればこそであることは、念のため付け加えておきたい。重要人物だけでなく登場人物の誰もが、たしかな体温を感じさせ、たんなる悪人にも善人にもなっていない。あるいはときに悪人であり、善人でもあるというべきか。とにかくそうであればこそ、自分が持つのと同じ体温を感じさせるのだ。私は善人ですと言える人など、どこにも居ないのだから。