『日本私昔話より じいさんと神託』藤谷治

最高だな、これは。もうひとつ上の評価をしたいくらいだ。
一行目からして面白い。そして最後までそれが持続する。語り口も面白い。アメリカのミニマリズム(の翻訳)っぽく簡潔にまたリズムよく読ませる所もあり、思わず線を引きたくなる。(「私には仕事もあれば、酒もあれば、他人への罵倒も、喫煙も、昔の女もあるんだ」とかその後の「妻もあった」のところとか)
また、基本リアリズムでありながら、非リアリズムな部分があって、だがしかし、あからさまな非リアリズムでなく、日常との境目が不明分なかたちで非リアリズムが用いられる。読む私達の境界も揺さぶられる。巧みである。
そして何よりここにみられる開き直りのような自己憐憫とそれを笑うかのような自己(への)諧謔は、ぜったい無くてはならないものだ。自己を相対化できない弱さにたいして正直でなければならないが、かといって相対化の視点も失ってはならない。こういう視点をもてないような小説多いよ。
そして更に世の中に対する毒、毒、毒。そうなのだ。こんなふうに、世の中に毒を吐き、ばらまきたいという意思を持たないのなら、小説なんて書くべきではないのだ、と声を大にして言いたくなる。どんなにメロディーとハーモニーが優れていても、そこにガッツがなければ届かないのだ。
「薄らバカの運転するマセラッティ」という記述とか、電車という乗り物の暴力性について述べたところなどは、シンパシーが増大しまくり。しかもまたそれは、あいつらはしかし私なんだという認識のもとにしっかりある。電車はイラツクしバカばかりなのだけども、自分も誰かをイラつかせてるバカなのだ、といったふうに。たんに小説内に他者を描くのではなく、自分のなかに他者をみて、他者のなかに自分を見る。それが直接書かれたところ、どいうつもこいつも私だ、そして目の前の私だけが不要だ、というあたりの箇所は、読んでいて興奮すら覚え、そして嬉しくなった。こういう作品に出会えたことに。
また何気に、この小説を動かすもととなった、痩せようと思った理由についても、妻への身勝手な想いでありながら、むろんその身勝手を隠さず、かつ単純でちょっと安っぽい湿っぽさがあるのに、しんみりと心を打った。
こういう作品を世に出してくれた藤谷氏に感謝。