『すばる』 2009.5 読切作品

先日ここでも書いた諏訪氏の最新作のなかで、苦痛と快楽は隣り合わせであるとかいろいろ快楽について語られていたのですが、何かと自意識が邪魔をする人間である私は、性の現場に擬似暴力を持ち込むのにちょっとついていけない所があります。
いきなり「痛いことをしてくれ」とか「縛ってみて」とか言われても私はどうにも困ってしまうのです。若い頃レイプに近いようなかたちでの性体験があって、でそれがトラウマになるどころか、あのときはとても嫌だった筈なのに、その後幾度か思い出すうちに本当に嫌だったかどうかも定かではないようになってしまっている、ひとりでするときもいつのまにかそればかり思い出している、そんな話をされてもちょっと。
相手の暴力が擬似的で本気でないことが分かっていても、「あの場」が再現できるものなのでしょうか。よく分かりません。もしかしたら快楽の混濁のなかで擬似的かどうかも定かでなくなっていくのでしょうか?
もしそうだとしても、される側はいいとして、「痛くする」側は、行為のなかでひたすら醒めていくような気がするのです。Sの人達は何を思いながら(感じながら)それをしているのか。
まあそんなことは別にいいとして、今となっては、あのとき手近に縛るものがなくて良かったなあとは思います。いや。あったのか?あったのに断ったのだったか、もう細部はまったく忘れてしまいました。


ひとつ言えるのは、呼吸が途絶えるほどの痛みを交通事故で経験している身としては、苦痛は苦痛でも極限的なあの苦痛までいくと、まったく快楽とは結びつかないという事です。