宇野常寛の津村評

何かといったらロスジェネですか、はいはい、という感じ。こういう時代の不幸を特権的に語れるかのような世代論者こそが、津村作品に出てくる人物や、津村作品に共感を覚える読者にとっていちばんの敵だという事くらい気付いて欲しいもんだ、と思う。
言ってみれば、津村が(あくまでどちらかといえば)捉えようとしているのはある世代の感覚とかではなく、そういう世代感覚にすらついていけない・いかない人々の感覚であって、学生運動の頃で言えば、ビラには目を通すけどそれほど熱心に運動などしない人であり、バブルの頃で言えばカード消費はするけどディスコになど一度も行ったことがないような人なのだ。
会社の上の方や日経新聞の紙面で踊るような奇麗な事にも、その裏にある醜い競争にもコミットできない人物は、当然ロスジェネが云々みたいな言論にだって、コミットできない。そこには低賃金の労働の場などで、むしろ世代の離れた人との間で感じられる生の感触なんて無いから。あるいはそういう世代論的な方法で、若者の声を拾い上げることにうそ臭さすら感じるものだから。