『音楽奴隷たち』平井玄

気取った文章をただ連ねているだけで、何が書いてあるかはおぼろげに分かるが何が言いたいのかさっぱり分からぬエッセイ。ドゥルーズだのアドルノだの名前がでてきたりもするが、典型的なディレッタントの所作といった感じで、あんな難しい思想家の本をいちいち読まないとこのエッセイも若しかしたら理解できないのだろうか。思想をきちんとものにするということは、名前を出すことでなく、その思想家の名を出さずとも、その枠組みで持って日常の抜き差しならぬ状況を鮮やかに解いたり、見通しをもたらしたりするものではないか、という以前からの思いが強くなる。哲学の役目とは哲学を忘れるようにする事だろう。
そのエッセイの中に、こうある。今は「百年に一度の大恐慌」ではない。むしろ「本源的蓄積」が資本主義の中心部に回帰しているのではないか、云々。
「資本主義の中心部」ってなんだろう?「資本の中心」じゃないしな、イデオロロギーなんて一塊の何がしかなのだろうし、とか思いつつも私が思わず立ち止まったのはその先。「20年前のバブル崩壊によるフリーズ、構造改革によるリセット、格差社会による再起動、といえば分かりやすい」・・・!!
ひょっとしたら文学の「中心」にいる人たちはこういう言い方が「分かりやすい」のだろうか?なんかそういう認識だとしたら、非常に困ってしまうのだが。だってバブル崩壊によるフリーズは「構造改革」などによって何もリセットされていないんだから
この国の構造改革は「民にできることは民に、地方にできることは地方に」とか言いながら、道路公団の民営化や郵政民営化が景気浮揚になんの効果がありました?医療分野改革では医療を崩壊させ、地方税改革では地方を崩壊させ、あげくの果てには、地方票・老人票の反乱によって選挙で大敗北してるじゃん。
バブル崩壊から何とか立ち直ったかのように見えたのは、全てこれ外需のお陰なのである。これには日銀のゼロ金利政策も大きく作用していると思われるが、日銀の超低金利政策なんて別にそれ「構造改革」じゃないし。(そういえばわが国がゼロ金利を解除した頃から急速に世界経済が悪化したのは、単にタイミングの問題なのだろうか?)
むしろ分かりやすいというなら、世界経済の悪化によってより大きく日本経済が悪化している事をみれば、「構造改革」が何もしていなかった事の何よりの証明になるだろう。何かしていたんなら、世界経済が悪化したところで日本はそれほどあわてなくても、という話になるだろうし。
そして外側の需要の方が大きければ、日本国内で開発するより、より外側の需要に近いところにいる外側の人間が開発し、製作もしたほうが効率が良いわけで、そうやって労働市場までもが国際化・平準化したのが、「格差社会の出現」。日本国内の労働者が時給500円で作るの嫌がったら海外で作ればよいという選択肢がどうしても生まれてしまうわけで。海外に負けないためには日本の労働者も安く自分を売らねばならない。構造改革による規制緩和格差社会を生んだように誤解してしまうかもしれないけど、労働市場規制緩和なんて、「小さな政府」論とは関係なくて、むしろ海外との競争との関連で出てきたもの。
構造改革」がリセットしたなんて認識をしていると、また、経済を再び浮揚させるために更なる改革が必要だとかそういう考えが刷り込まれちゃうかもしれないよ。「バブル崩壊」→「外需への刺激」→「外需のバブル化」→「再び崩壊」が正しい認識。
(なんかこれじゃ平井氏への批判ではなくて、これを読んで納得してしまう人への批判だね。)