『巡礼』橋本治

圧倒された、といっても良いだろう。近代文学のひとつの達成ですらないかとも思える。
一言で言ってしまえば、「ゴミ屋敷」と称される、ゴミを家の中や庭に溜め込んだ家に住む「変人」の、そうなってしまった理由を明かそうとする試みなのだが、その理由について作者は一言で済まそうとはしない。その家の「変人」である家主の、遥か昔、生い立ちの頃(中学生の頃)まで遡り、時代背景とともに一生を描いていく。そこまで描くことによって「理由」の説得力を出そうとし、成功している。「ゴミ屋敷」に歴史あり、なのだ。
それはまた、どうしてこうなってしまったのか自分でもよく分からない=過去をよく覚えていない家主に代わって、彼のために過去を記述することでもある。ここまで寄り添うことによって、この家主にとっての救いとしてこの小説が成立すると同時に、同じ時代を、ときに主体的に動いているつもりで多くは時代に流され生きてきて、自分はどこでどうやってだか兎に角こんな所に行き着いたのだなあ、という感慨をもつ多くの人々にとっても救いとして成立している
いや時代こそ違え、少なくとも近代であれば多くの人はこのように、選択しては流され流されして生きてきたわけで、シンパシーを抱かざるを得ないだろう。どちらか違った方に転んでいれば全く違った目が出たかもしれない小さな偶然の積み重ねと、またその偶然もどちらに転ぼうとも大きな流れの中にある・・・そのバランスがきちんと描かれている。
例えば、この家主の父親があれほど早く倒れる事がなければ・・・、また例えば、最初に家主の嫁となった女性に結婚をあせる理由がなければ・・・、こんな事には決してならなかったのだ。だがそれらの偶然もまた、昼間から酒を飲むような生活が許される雰囲気とか、年頃の娘はなんとしても嫁にやらねばならぬという雰囲気とか、時代の背景とは無縁ではない。
そしてそれらの時代背景についても章を改めたりする際や、また物語の中の随所で、丁寧に説明され、しかも的確なのだ。読者は戦後というものが成り立っていく有様を、商店街というものがどのように出来ていったか、とか「通勤」なるスタイルの発生、団地なるものがどうやってできたかとかを、知り、その空気を身近に感じながら、主人公に肉薄できる。簡潔にいうならこれは、個人史でもあり戦後史でもあるのだ。ただしこの戦後史は表舞台の出来事(誰が首相で、朝鮮ベトナムで何があって、大学では紛争があって等々)からは「生活」寄りなのだが。
ラストにかけての弟との邂逅もいい。四国へ巡礼に出かけるのだが、ここまで来ると作り物というか通俗小説めいて見えるかもしれないが、それまで読んで圧倒されているので全く気にならない。天ぷらを旨いといい、それなら俺のも食うかと弟に言われ、兄が言った言葉「いや、お前が食え」・・・。正直言うとありきたりに、ベタに感動してしまった。この短い台詞に全てを圧縮させた作者の手腕の凄さに感嘆する。「お前」という言葉によって昔の兄弟の関係に還り、また、人間が本来的に持つ共生的な優しさにも還っていく。最近までゴミに文句言う隣人を睨み付けていた人物が、である。
そして彼はそれまでの「納得できない無意味さ」から、食べ物を共に分け合うことで他者に出会い、「納得できそうな無意味さ」へと移行する。ラストの「会いたいひとに会いたい」というのは、彼がやっと他者を見出したという事だろう。
ひとは「人」を見出すことで、つまり人と共にあるという思いがあってはじめて、無意味さに耐える事ができる。ただし一度見失うと再び見出すのは場合によっては大変なのだが。そうなると多くは意味を見出したくなって、宗教だの自分探しだのになるのだが、ひとつ言えるのは、ポストモダンな人がいうような言葉−「無意味をただ生きよ」などと彼に言うだけでは何の役にも立たないだろうという事だ。


それにしてもこの小説は、私が読んだことのある、「悪人」の内面にせまろうとした小説のなかでは、最高に説得力のあるものとなっている。特筆しておきたい。こういう内省を欠く(かのようにみえる)人物を純文学で描くのは、純文学そのものが内省を主とするものだけに必然として、どうしても説得力を欠いているものが多くなってしまう。その宿命をこの素晴らしい作品は乗り越えている。