『不正な処理』吉原清隆

うーむ、恐るべし。いやこの小説が、ではなくて、『群像』の鼎談で扱う本を決めている人のこと。この作品にしろ『潰玉』にしろ、あそこで選んだ作品が見事に芥川賞候補になっている。恐るべし選作眼。
で肝腎の作品だが、終わりまでほぼ一気に読めた。ストイックな文章で抑制がきいていて、だがしかしナルシスティックな所がまったく見られない。まず非常にそこが共感がもてる。こういう仲間はずれ的立場を主人公に描いたリアリズム系では、自己肯定をしてしまうような雰囲気がどこか漂ってしまう例も結構あるものなのだが、それが無い。あの思春期独特の醒めと諦めをきちんと持ち越している。
その思春期の情景(というより光景)のリアルさもじつに迫っていると思う。ああ、まさにこんな空気だったよな学校にしろ家の周りにしろ、と思わずわが身を振り返ってしまう。むろん私も純文学を読むような人間であるからして学校では死んだようになっていた奴だったのだが、そういう人間に光景として残っているのはたいていその学校から解放されたあと−放課後の暮れていく光景であって、その場の空気が全編にわたってずっと漂っている感じがする。
人物もいい。自殺した親友はもちろんのこと、母親、嫁、娘、そして役所の課長まで含めてそれぞれが主人公にとって不可知なものを持ちながら確実にそこにいる手触りがあるのだ。
どうしたらこういうリアルさが出せるのだろうというのは、はっきりした事はよく分からない。今ひとつ思うのは、話の大筋とは関係ないような記述があちこち散りばめられている事。これがその良さに繋がっているのかもしれないと思ったりする。例えば娘でいえば、テレビに出ているタレントなんかより全然かわいいと思ってみたり、母親が東芝の店でいつも買い物しているとか、嫁は若い奥さんになるのが夢だったとか。ちょっと余計かなと思える描写がけっこうあるのだ。団地の棟のつくりをくどくど書くところ、岡田有希子と雑誌の広告、桶狭間の戦いにかんする俗説などなど。よくよく考えると、ラストの天啓なるものも、まったく余計な感じがしてくる。こういう一本調子ではない余計なことが色々とある有様が、我々の生の有様の模写となって、リアルさに繋がるのではないか、と。
そしてまた我々の生という奴は、そういった余計なことにまみれながら、かといって、まっすぐ進もうと思ってやっていてもときに不条理に立ち止まらされているわけで。でその不条理は「不正な処理」でもある。つまり、実際のパソコンの画面上の不正な処理に主人公の作業が止まらされる所と、娘がそんな事やってたという不条理さ=「不正な処理」に主人公の人生がやられてしまう所とが、うまくオーバラップしている、と思う。
その娘がやっていたプログラムが昔自分が関わっていたソフトに繋がるという不条理さは今思えばやりすぎというか、この小説のストーリーそのものの偶然さは少々出来すぎだとは確かに思う。ラストへの図書館などへの流れも少々ストーリーが勝ったというか・・・せっかちで多少類型的。他にも探せば瑕疵はいろいろあるかもしれない。犬の目なんかはあまり犬の目の違いを気にしたことがないのでピンと来なかったし。
しかしそれが気にならないくらいに、余計で良く分からないものがこの作品にはいろいろあって、それがよく分からないものとして一人の人間のなかに統御されている感じがして、だからこそ最後まで一気に読み通せたのだと思う。ストーリー以外に一本通る何かがあるのだ。
そういえば、職場での「あの男」も「あの男」と書くくらいだから何かそこから発展するかと思いきや、それ以上は何もないというのも面白かった。最初に親友に出会ったときは「ヒト」と書いていたが、これらも思えば、ある年齢における他者への違和を表現するにあたって、うまい書き分けというか言葉使いだと思う。どこまでが計算かはまったく分からない。