『あとのこと』中山智幸

この作家の過去例から考えて予想外に凝った構成の作品。
作中人物が書いた事をそのまま作品にしているかのような構成で、小説内小説いわゆるメタ小説の一種だろうか。佐川光晴のときと一緒で群像の翌月の鼎談ではまた皆そんな所ばかり目がいっているが、しょうもない。しかし私もまた佐川氏のときと評価基準は自分のなかで一緒だったりするのだが。つまりは、そういう構成の妙など関係なく、やはりこの小説は面白くないし、なにより好きになれない。
人間を見つめる目に、どこか我々の根底にあるはずの同じ人間としてのシンパシーを感じないのである。それは登場人物の造形によく表れている。極端にいえばこの小説には魅力的な人物が誰一人出てこない。とくに伯父がひどい。そして、となれば、伯父をこんな人物として書いた祖父(や伯父の息子?)もひどいという事になる。これが死んでいく人間の目だろうか。
ソフトボールに(中高生の頃のことに)いまだに拘るのもそうだが、いい大人になりながら、自分の親が死んだときにまで兄弟げんかをするような人間がいるとは思えないのだ。そしてこの伯父の甥への態度も考えられないものだ。自分の娘にちょっと近づいただけで、いきなりその仲を疑うような伯父なんているとは思えない。この伯父だって親族内では孤立無援的人間なんだから、一人息子にシンパシーを感じてもおかしくない。あるいは過去に仲良い時代があって、何かで決裂したことがあるのかもしれないが、だとしたら、そういう事を少しは匂わせて良いだろう。このままじゃひとつも救われていない。言い換えれば、この小説は伯父のような人物をバカにしたままなのだ。
それにこの兄弟げんかで妹の不実が話題になってるのも解せない。伯父は妹のそういう情報をどこから盗んだのか。妹本人が自らのマイナス情報を直接言う訳はないのだ。まあ祖父か祖母から、ということになるのだろうが、妹だってそう簡単に祖母や祖父に言うものだろうか。自分よりも近い距離に伯父がいることを当然警戒するだろうし。そんな簡単ではない情報を仲が悪いと知ってて伯父に流す人物も、第三者から手に入れた情報をもって妹を攻撃するような伯父も、とうてい許しがたい、なんとも嫌な人物だなあ、という事にならざるを得ない。
もうひとつついでに言うと、中国大陸とかならいざ知らず、あの戦争で南方に行って未だに戦友の事より自分にした食べ物の約束を重大視しているのも違和感がある。もちろんその当時はなにより食べ物の事が重大事に違いなかっただろう。しかしたいていは、それは「あとのこと」からは退くのだ。今当時の事を語らせると、図ったように皆、戦友の事ばかりなのだ。もちろん中には変わった人の一人や二人いて、そういう人が小説に登場したっていいんだけど。
言い訳のように付け足すと、群像の鼎談では3人ともこの小説は大絶賛で、私のはかなり偏った感想かもしれない。小説の構成的には確かによく出来ていて、上手いと感じる所もある。美佐子が捨てる章への流れなどはとくに。こういう構成の妙がページを先に進ませようとする原動力にはなりえている。