『クロスフェーダーの曖昧な光』飯塚朝美

選考委員の各氏も苦言ばかりなので、遠慮なく[オモロない]にする。新人の作品を読むと最近思うのだけど、いったいこの人はお話を書きたいのか、人を書きたいのか、と。それともただ小説家になりたいのかな、と。
私は保守的な読み手なので、やはり純文学は人を書いて欲しいと思う。お話がまずあって、そこからその話のためのような都合の良い人を適当に作り出す、そんな作品は読みたくない。
でこの作品の人物なんだけれども、こんなふうに「作る」必要があるのかな、と思う。しかもせっかく極端な人物を作っておきながら、魅力も余り無いという。具体的にいうと、シメオンという人物の天才らしさがまるで伝わってこない。となると彼に魅せられた、に類する記述がことごとく空振りになる。同僚の言葉を切って発声する人がいちばんマシな気はしたが、なかでもこの舞台監督はひどい。「シメオンよりよほど深く病んでいる」って形容詞だけで終わらせている。いったいどこがどう病んでいるのか、物語にとって主人公と同程度な傍観者にしか感じられないのだが。「Aは狂っている」と書けば、それで小説は済むわけではあるまい。どこがどう狂気を感じさせるか、だろう。
もっといえば、そんな極端な変わり者でなくとも我々の隣人というのは皆、どこかしら得体の知れなさを持っているし、あるいみ病んでいるのだ。月並みにいえば、「普通」のなかに「恐怖」や「狂気」が宿っているのだ。その相を浮き彫りにしてくれるのが純文学なのだ、と思う。この作品で言えば、私は主人公の両親の「狂気」をこそもっと書くべきだと思う。
あと、もっと困ったことだが、具体的な文章の比喩に躓いてしまうこと多々。いかにも文学的常套でしかも大げさで辟易させる。例をあげると「崇拝する者の教えを理解させることを放棄した、伝道師にも似ていた」「啓示を紡ぐ聖者に見えた」。牧師でも神父でも宣教師でもラビでもムスリムの指導者でもないのだ。「伝道師」「聖者」・・・。この日本で暮らしている主人公はどこでそんな人をみたというのか。もうひとつ見つけた。「覚えのない赤子を押し付けられたような煩わしさ」この若い主人公の体験からして、こういう比喩は無理があるだろう。まだしも、この僕が文学ファンという設定なら分かるのだが、『金閣寺』を読むのに苦労するのだから、それだと矛盾してしまう。
唯一買えるところは、色覚異常というニュートラルな人間でない人物を主人公に据えたところで、色が違って見えるという事はどういう事なのかを考えながら読まざるをえないので、少し幅がでたように思う。例えば、火事を回顧するシーンなど、おとくいの?文学的形容詞がなくただ「赤い色が炎が」だけでも、そういう要素が頭にある分迫力を増してきたりする。
ところで、この主人公は強姦未遂という重大な罪を犯しているのだが、淡々と事後を振り返ってそれへの恐れも悔いも何もないのはやはり気になる。ホモソーシャルに厳しい事書いた松浦理英子とか気にならなかったのだろうか。結局「真理子」さんも、話のための人だという証拠みたいなもので、ならばこそ何のケアも無いのだろう。とてもじゃないが簡単に忘れられる出来事ではないと思うし、弟だってある意味篭っているのだから、人と関わるというのはもっともっと重大事だろう。