『けちゃっぷ』喜多ふあり

もしかして同水準だったらどうしよう、と思い、同時受賞作を読めなくさせてしまった、私にとってそんな作品である。
とにかく不自然さが際立つ。そして、こちらの作品では、人が、物語ではなく、意匠というか工夫の犠牲になっている。
小さいところでは、ブログに書いたことくらいブログ作成者は簡単に消せるのに「消去できないかな」というところにまずひっかかり。
でもそんな事どうでも良いくらいに不自然なのは、「空気を読まなきゃ」という気持ちを人一倍持っているような人間がAV男優なぞやっていることだろう。この不自然さはもはや小説全体の破綻ですらある。「空気」というのは何より同調圧力の事であって、皆が白い目で見るようなAV男優なんていう職業などやる訳がない。むしろ空気を読む者が絶対に避けることである、それは。
それにいくら小説的アイデアのためであるとはいえ、ブログでしか饒舌になれない人が、実際に人と会って声も発せずにブログに書き込むというのは、やはりどうかと思う。あれだけの狂気を宿した秋葉原事件の加害者でさえ、彼も掲示板で饒舌な人間だったわけだが、ナイフを買った時に店員と会話をし、やはり人と会話をするのはいい、と余計な一言二言店員と会話しているのだ。人と実際に会うというのはそれだけの力を持っている、と思うし、ネットでしか生き生きとできない人たちというのは、ここで描かれる事象とは決定的に違うと思う。
それともこの主人公はあの秋葉原事件の加害者以上にイっちゃってるとでも言うのだろうか。それにしては、このブログでの言葉のひとつひとつが凡庸で詰まらない。田中康夫的には面白かったらしいが、「あんたのブログ面白いね」と登場人物のヒロシに何度も言わせる度に私は、いったいこれのどこが、と白けた気分が増していった。
ついでにいうとAV監督の狂気も元カノの怖さも、これもやはり「狂気だ」「怖い」という形容詞だけで片付けられていて、伝わってくるものが無いのだが、どちらかというと私にとってはそれ以前だった。
それでも少し良いと思えるのは、AV監督や主人公の、やや哲学めいた思索を織り交ぜているところ。ここで幅がでた。AV監督の絶対平和がどうのこうのは退屈かもしれないが、ラストでの、一回こっきりの生を繰り返しと表現する所などはなかなかだったと思う。テープの繰り返しから繋げるのはやや感情移入しづらく無理があったが。そう感情移入といえば、一回きりの生の素晴らしさを感じるような人間に、アフリカ難民とニートを比べるなとか向こうはどうせみんな同じ悩みとか言わせるのはちょっと不適切。あそこは萎えさえた。