『われらの時代』佐川光晴

文句なし。私にとっちゃ掛け値なしの傑作。常にリアリズムで、労働というものを見つめてきた作家だからこそなしえた仕事だろう。
民間で残業代の出ない残業を働いてる人のなかには、公務員を天国で働く人のようにみる人も少しは残ってるかもしれないし、たしかにそういう楽なポジションも残されているだろうが、方やもはや児童相談所のような公的な職業であっても人間的な職場でなくなってきていることがきちんと書かれている。小泉「改革」以後、病院なども含めこういった福祉方面の仕事の非人間的な状態が目立つようになってきた気がする。民間ならば常に公的に監視されているわけではないので、場合によっては採算さえ取れればある程度ゆるくできる部分があったりすると想像するのだが、公的な職場ではそうも行かないという部分でもあるのだろうか。福祉というのは採算ではないから福祉だと思うのだが。
巷ではやれ「蟹工船」がどうだとか新潮社も宣伝しているがあんな革命という希望と、官憲という確かな敵がいたころの話など「今」と全く関係のない話だ。と言い切りたいくらいこの小説は間違いなく今を切り取った小説なのだ。マジで。これは最初の一行から、最後の一行までがリアリズム小説なのだ。
翌月号の群像の鼎談では発言者から「携帯妄想小説」だとか大笑いした部分があったとかいう言葉があったが、ここで描かれているのは精神病患者が抱く妄想の典型といってよいくらいの一類型であって、無知からくるとはいえ、よく「大笑い」できるものだと思う。ま私の場合以前職場に、交通事故が原因で、つまり内的な脳の器質的な問題で被害妄想に陥った友人がいて、じっさいにこういう体験があるからよく分かるのだが。繰り返すがこの小説は、非リアリズム小説として楽しめるような装いとなってはいるが、ここで盛られている妄想は摩訶不思議なものでも、小説的なものでもない。佐川という作家が技術的に優れているがゆえに、あるいは佐川は現代的な精神病の類型を小説的な技巧としても描けるとして描いたのかもしれないが、出てきたのは現実である。
私の友人は長い日常生活というリハビリで嘘のように被害妄想的なことは口にしなくなっていったが、普通の正常な会話のなかで、自分が常に監視されていて、寝ている間に机のものが明らかに動いているとか、電話も聞かれているのでお前や先生に話すような大事な事は電話を使わないで直接言う、などの事を言っていたものだ。部屋のなかでちょっとした物音がしただけで、自分に対する注意・攻撃だと身構えるのだ。私は彼のそういう言葉を聞いてどんな反応をしたか。言下に否定などもちろん出来なかった。相手の話を信じてあげつつ、エスカレートしないようになんとか軟着陸させる事に苦心したものだ。そういう妄想を大真面目に肯定することもしなかったが、笑うこともできない。そういう体験をもつといくら小説とはいえ、大笑いなど、とてもとても出来ない。
ついでに言えば、それ以上に、「携帯」という未来的なモノの存在もこの小説のテーマには少しも関係していない。何十年も前の小説から比べればモノとして目立ちはするが、まったくもって、携帯が身近な通信手段として普及しているから出てきただけに過ぎない。その証拠に、この主人公は携帯も何もつないでない状態で、自分の監視者である北田の声を聴くではないか。ちなみに、これなども精神的な妄想としてありえることで、今調べたら、「注察妄想」というらしい。
いや他人の読解をこれ以上責めていてもなんなので止めるが、14時間労働と土日休み無しなんて生活を続け、自分のした事で他人に殴られるようなショックな事態が起きれば、こんな事はいくらでも起きる(自殺寸前までいくのだ)。しかも真面目な人であればあるほど起きるのだ(うつ病になりやすい人の類型)。
この主人公は、協力者である吉田夫人の夫に殴られた直後の会合でいきなり泣き出し、「私の考え方に根本的な間違いがあったのだ」などという。その背景には吉田夫人との逢瀬めいた偶然の出来事への心理的に表面化しない反省もあるのだろう。しかし、うつになるような人にとってはあのていどの出来事ですら自分を責めてしまう材料になってしまうという事で、吉田夫人との出来事も小説的な秘密の暗示などではない。
むしろ今回の作品では、佐川氏が最後になって、いくらかの救いを暗示させている事は、小説的なものとして歓迎したい。最後になって、現実をただ切り取っただけではないものを呈示してくれたのである。それは、案じていた吉田夫人が、たいした後遺症もなくやっているという手紙を最後にもってきてくれた事。現実ではなかなかこういくケースはないだろう。また、主人公の自殺は家族の携帯によって(一時的に)止まる事ができたが、現実ではむろん自殺は実行され、残された家族が今度は底に落とされるかのようになるのだ。
ただし、もちろんメデタシメデタシではない。この吉田夫人の手紙はすぐにはきっかけにはならない。なるどころか、その後も妻に「毎晩いろんな人の話が聞こえて」と話し、まだ妄想が現実の範囲なのだ。現実に誠実なら、残念ながらそうならざるをえまい。主人公は自分の妄想を「たしかに慌てて口に出さないほうがいいかもしれない」と言える地点にまで来てはいるが、まだまだこの程度の客観視は回復のうちに入るまい。
しかしまだ病的な言動かもしれないものに対して感動など口にすべきではない事は分かってはいるが、「これまで小説など書いたことはなかったが、そうする以外にないという確信があり」という主人公の言葉は胸をうつ。この非人間的な労働が見過ごされている時代は、書かねばならないのである。それは、この小説を書いた佐川氏自身の確信としてもそうなのではないか。
つまり、最後に主人公が書き始める小説の題名も、小説的な円環をなす技巧として捉えて面白がる必要もない。ただ主人公が書こうとしている小説の題名をこの小説の題に据えたという事であり、それはまた、佐川氏が書こうとしたのが、われらの時代、この悲惨なる時代なのだ、と単純に捉えても少しも不都合がない。