『太陽を曳く馬』高村薫

やはりこの作品にはやはり言及せざるを得ないだろう。もはや推理小説的なものから遠く離れ何一つ解決していない完結なのに
この素晴らしさ。福澤はけっきょくどうなるの、でもこのまま放置でも良い、みたいな。
ときに絵画論もあり、古代宗教から近代哲学まで網羅した抽象論の果てしなさ、読ませてくれました。そして検事も辣腕弁護士も区別つかない病的な元気さによる語り、またひとつのハイライトであった仏教徒3人の語りも誰が誰だか分からないくらい同じだったなあ。このへん、普通の小説に対する評価ならキャラが描き分けられてないとなるわけだが、それでもいいんだよ、と思ってしまう。この刑事の外部としてみれば。
19世紀小説的な語りの様相すらときに帯びてきていた長い長い語りは、この作品の一大特徴であって、そしてやたらギラついたこの中高年たちは高村のなかでひとつの強固なイデアのごとくなっていて、もはや描き分けの必要もないのだろうか。ときに何かが憑依しているとしか思えないのだが、現代において小説を書くという事はそんな事であるわけがなく、極めて意識的なのだろうが、それでも思わずそう思わせてしまうというのは、圧倒した筆力を高村が持っているという事なのだろう。
ただやはりそれはじじつとして想像しづらい。どこからこのエネルギーが来るのか。くりかえすがやはり、何かが語らせているとしか思えない。戦後日本人の無意識的意識が高村のなかにエネルギーとなって凝縮している、そんなイメージが浮かぶ。
長い間、ほんとうにご苦労様でした。