『金魚生活』楊逸

楊氏の話題って、文藝春秋の思惑以上には世間的に盛り上がってない気がするのは私だけ?なのかもしれないが、それならば、と今作も臆面も無く[面白い]評価。天邪鬼というよりたんに世間でちやほやされると反感もっちゃう小市民ってだけなんだけど。
純文学作品としてどうなのか、ということはさんざん(というか2、3回だけだけど)このブログでも書いた。高樹のぶ子小川洋子みたいなタイプの作家らが芥川賞受賞に加担した事からも分かるとおり、こういう小説は中間小説なのだ。今の人には「中間小説」って何?という感じもあるのかもしれないが、文字通り娯楽小説と純文学の中間ってこと。博士の愛したなんとかなんてまさしく中間でしょ?
純文学ってのは、文学を、柄谷ふうに言えば括弧入れ(メタレベルに立つ)する小説であって、高橋源一郎がずっと口を酸っぱくしていってるように「書くこと」ひいては小説とともに成立した「近代」「近代的自我」に対する疑いを含んだものだが、楊の作品にはそれがない。いわば、日本ではずっと昔に成立した、近代小説そのままなのだ。これは中国が、様々な共産主義的な運動によりあっちに振れたりこっちに振れたりして、あるいは制限されたりして「遅れて」きた所であることと、乱暴にいえば無関係ではないだろう。
だからこれを日本の純文学として評価する事に意味があるとは思えないし、そういう意味で芥川賞に疑問を持つのは分かる。しかし、あくまで「今近代国家として歩んでいる中国」ということを念頭におくなら、一定の評価をすることは間違っているとは思えない。植民地主義だという批判を考慮にいれあくまで「一定の」という留保つきだが。
おそらくこれからは、これまで以上に中国というのは日本にとって重要な意味を持つ国であることは間違いなく、その国においてこういう人間がいるこういう生活がなされているというのは、やはり刺激的であり興味深い。誰かが似たような事をいっていたが、コンビニと四畳半を行ったりきたりして嘆息しているような小説よりは、「ときに」読みたいと思わせるものなのだ。
で、この小説について具体的に書くと、いちばん興味深かったのが、それまで調味料などを扱っている店が、「開放経済」政策によりいきなりレストランにかわり、経営者はそのままながら失職者を出し、彼らはなんの手当てもされず、タクシドライバーなどしてしのぐという所。これ、日本の改革なんて比べ物にならないくらいの変化で、むごい。共産主義国でリストラですよ。
こういう事は例えば東欧諸国なんかではいくらでも転がってる話なんだろうけど、それでも共産主義に戻れないっていう二律相反があるから悲劇だ。自ら共産主義を倒したんだからスゴスゴ元に戻れないみたいな。中国では、上からの改革であって共産党は残っている分、尚更抗し辛いだろう。それでも最近はあちこち暴動など伝えられているが、基本的に、国がどうあれ自分でなんとかやっていく、という人々の自立心みたいなものが日本に比べ強いようで、国家の成立の薄さがあだになっている部分も感じられる。そんなにたくましくなくても良いのに、という。
労働組合の力が強いアメリカやフランスなんかのほうが、こういう場面ではよほど共産主義的なんだけど、歴史とは皮肉だなあ。
って小説のテーマとは余り関係のないことを書いたけど、楊氏の小説は村上龍的にいえば、こういう情報をもたらすものとして読んでも良いと思うのだ
それでも、純文学的部分についていうと今作は芥川賞受賞作ほど人物が単純ではない。レストランの支配人や飛行機で知り合ったマダムなどは単純な悪役にしかなっていないのはウーム的部分だが、主人公の娘、最後に見合いをする人物、中国に残してきた同棲相手などは、それぞれ、人間の嫌な部分を見せつつ、共に生きるべき存在としての視線を感じさせる。いわば「他者」として成立している。
また主人公が日本でひとときを暮らすアパートでの全く言葉の通じない隣人オバサンとのコミュニケーションなども、こちらははじめから「他者」だが、面白い。楊氏の小説の面白い点の二つ目がここにある。2つの国の近代的自我の、こういう衝突と邂逅だ。