『ばかもの』絲山秋子

この連載が始まったときの自分の感想を読むと、よくそんな事書けるもんだと思ってしまうが、仕方ない言ってしまおう。なんじゃこのリアリティは、読む手が震えるほどの面白さは。
群像の鼎談では、『ラジ&ピース』について、けっこうツッコミがあって、この作品なんかは連載ということもあって、もっとアラはあるのかもしれないが、読み終わった瞬間はとりあえず全く気にならなかった。それくらい感動のほうが強く、批評眼などどこへやら。このブログをやりだしてから、小説を読みながら、あまり入り込まずにちょっと批評的な眼で見てしまってる自分がいて、ときにゾっとしたりするのだが、そういう自分でなくしてくれる作品はあまりない。そして、古今東西どん底ともいえる場所からこれほど生きるということを肯定的に描けた作品を他に知らない。もちろん私の読書量が少ないから言えるだけで、話半分に受け取ってもらいたいのはいつもの事なのだが。
とりあえずヒデのアルコール依存症以外は何も解決していない。当然だろう。今の日本での暮らしを描いて、そんなに何かが解決したら、いっきにリアリティが崩れ去ってしまう。
やっとスタートにつけた、という所でこの作品は終わるのだが、それにしたって、相変わらずヒデは余計な事を思って余計な事を言って失敗するし、相手の女性のことを完全に分かったという自信があるわけではない。昔の知り合いが犯罪者になってしまった事もうまく受け止められない。リアリティをもって描くなら、やはりそう描くしかない。ただしヒデは、よく分からないながらも、この物語の当初と全く変わってしまっている。それは、分からないながらもそれを受け止めようとする覚悟が芽生えたこと。いちばんひどい時は、人の裏も表もない善意すら(いや裏も表もないからこそ)、酒の力をもってしても受け止められなかったのだ。
それはむろん相手の女性の存在が大きく、というか、相手の女性の存在が無ければありえない話で、さらに言えば相手の女性が片腕になってしまった事が無ければありえたかどうかも怪しいのかもしれない。片腕で生きている人間のまえで、そういう人間が白髪になりながらも器用に生きているまえで、世の中に向かってダダをこねられる訳がない。
逆にいえば、ヒデという人間はそこまで見せられなければ分からなかったという事になるのだが、それはそれで仕方がないではないか。弱い人間が弱いからといって、簡単にそれを責めて済ますことのできる人間には、文学などお呼びではないし、文学がお呼びではない人間など私にとってはお呼びではない、と言い切りたい。
そしてさらに思うことは、男女の間の恋愛であれ、その基礎にはやはり「尊敬」があるのだ、ということ。ヒデは相手が片腕であるから自分より下の者としてそれを守りたいとか守るべきと考えるから、一緒に生きていくことを決断したわけではない。片腕で暮らす人に自分と同じか上である部分をみて一緒にいたいと思うのだ。恋愛とは一緒に居たいということであって、さいごには尊敬があるからこそ一緒にいたいという気持ちになるのだ、ということ。
私達は尊敬を、料理が上手いというような具体的な事柄から頭が良いとか切り替えが早いとかあるいは頑張り屋だからというような抽象的なことでも何でもいい、あるいは言葉に表せないその人全体への気持ちとして、何かしら尊敬めいたものを、相手に対して持っているはずである。一緒に暮らすような関係にいたる恋愛の場合は。そうではなくて一緒に暮らしていると言う人がいるとすれば、ただそれをはっきり意識していないというだけに過ぎないと思う。