『冬待ち』谷崎由依

いまだに軽く余韻を引きずっている圧倒的な絲山作品の直後に読むのであれば、それだけでちょっと不利な処があるのに、このような全く対照的な作品が来てしまって、うーむ、正直今作は読み進めるのに少々苦労した。どのへんが対照的かというと、その自己への閉じ具合と表現したらいいのだろうか。あるいはどのくらいそこに「社会」が見え隠れするかという。
しかも舞台設定が図書館だの司書だのといった、ただでさえ避けて通りたくなるような、その時点でもう作品として自動的に減点対象であるかのような、自閉的な人が集いそうな場所を選んでくれているわけで、これがもし詩的で変化に富んだ文体でなければ、マジで途中でやめていたかもしれないくらいだ。(そう、文体の密度は古井由吉かというくらい確かに濃い。)
もちろん批評としてモノローグだとか他者不在というふうな柄谷的タームですぐ片付けてしまうのも安易で、自己を徹底して見つめなおすことをせずにやたらと外部志向なのもそれはそれで疑問だし、村上春樹のようなビッグネームにだってモノローグとしか言えないような作品はゴロゴロしていたりする。しかしやはり、読んでいる人の自己や自分の立っている位置を不安定にする事にこそ小説を読む意味があり、そして何より不安定にするのは外部しかないのではないか、と思う。たんに私の個人的な志向性に過ぎないのかもしれないが。
で、自己を突き詰める系のものは、たいてい見つめなおした処で結局何もなかったりするか自己がそのまま強化されるかであって、「何もない」を強烈に提示するならともかく、この作品はむしろ後者の気配すら漂うのだ。登場人物はことごとく主人公の頭のなかの存在という感じで描かれ、唯一「外部」の匂いのする同棲相手の世話を焼いてくれる男性を結局は拒否するのだから。そしてその拒否にそれなりの分量をもって応えるのならともかく、彼はにべもなく舞台からさしたる抵抗も無く排除され、頭の中で描いたような存在である「慧子」と一体化した挙句、次のステージが明るく描かれたりする。この「明るさ」「合理化」はなんなんだろう。この彼の抵抗の無さは、なんとも余りに勝手な、という感想しか残さない。
例えば本の虫であり図書館に引きこもってただ読んでいれば悦楽状態のような人であれば、この作品も楽しめるのかもしれない。しかし、2、3日活字を眼にしなくても生きていけるし、生きていけると言い切りたい、つまり、読書ばかりしているような自分に時としてウンザリする私のような、自分嫌いヒト嫌いの人には楽しむのは難しい。そして、一切読書などしそうもないようなタイプの人と接する事も面白くかつ必要でさえある私には、このような作品を楽しめる本の虫的な人こそむしろ強者にように見える。ただし、だからといって少しも羨ましくない。


※追記
書こうと思って書き忘れたこと。
思春期に、自らを圧倒し倣わせてしまうくらいの(たいてい同性である)存在を身の回りに見出すことは多くの人が経験していると思うのだが、これはなぜ多くの人が経験するかというと、けっしてその圧倒的な人が優れているからではなく、見出す人が求めている部分が大きいと思う。
そのことを、もっと説得的にこの作品が描けていれば、そして(しつこいが)舞台設定が図書館とかでなければ良かったのに、と惜しくも思う。


※追記
タイトルが『群像』になってたので、直しました。すみません。念のため言っておくと、この作品が載ったのは『文學界』です!