『イキルキス』舞城王太郎

舞城王太郎は新年号に載った作品がけっこうツボだったのでこれを一番最初に読むことに。
基本的に、全くクセのないという意味でとてもクセのある作品である。文章は読みやすく物語の展開も非常に分かりやすい。最後の方になってまるでそれがこの作品のテーマであるがごとく物語論が出てくるところなどは全く普通の小説の様式そのままである。そして物語論の内容についてもかなりストレート。単純である(まあこの辺は中学生の内面に仮託しているので仕方ない面もあるだろうが)。むろんひねった作品解釈などをする能力の皆無な私としては、このへんのテーマ的な主張はそのまま受け取ってしまいたい。不思議なものは不思議なままおいておいたほうがいいというのもやはり真実なのである。いや真実というのもおかしいかもしれないが、有力で魅力的な立場・生き方なのは確か。
だが、そういうふうに主張するという事は、なかなかそういうふうには出来ない傾向があるという事でもある。常に世の中の出来事をそのまま受け取り続けるというのは難しいことでだからこそ、世界を解釈しつづけようとする本郷にたいしては、よくやるよと思いつつあくまで友達であり続けるし、他のひとにとっては彼は魅力的な人物なのである。
この「どっちつかず」は、先生との性交渉を止めつまり経験のための経験を止め、世界をヘタに解釈しないことによって女の子達が帰ってきたこと、および一方では、本郷のように6という数字から出来事を解釈することで突然死が6人で終わらせることができたということによって示されている。
ところで、上記のような事を書いていてもどかしいのは、そんなこんながこの小説の魅力を伝えるにあたっては全く役に立ちそうにも無いということ。これを読む我々もときに解釈したくなりながら(そして解釈しながら)、この小説の出来事をそのまま受け止めるべきなのだ。
そのままというのは、中学生でありながら”所詮中学生の恋なんて”と自らを対象化してしまう所や、授業中にぽっくり逝くところを面白おかしく語るところなどの如何にも現代的な冷めたところとか、弟のへんな存在感とか、倉庫でのキスでの内面でのいったりきたりとか、突然家に来られてそれを追いかけていきなり恋に落ちたときの感じとか、そういう出来事をそのまま楽しめるかどうか。この中学生の身勝手な疾走を。
とくに、女子のあいだで自分がけっこう注目されている事を知るあたりの意外さ、嬉しくないことは無いがそのまま受け止めるというのではない複雑な思いはよく表現されていると思う。私も学生時代からモテた覚えはないのだが、あるとき自分が全く無視されているわけではないのを知って非常に驚いた事がある。男性と違いけっこう女性は現実的というか、いざ付き合うとどうかという事を頭に置いているせいなのか知らないが、容姿以外のところを見ていたりするものだ。だがしかし、基本的に適度にモテたりしない方が、つまりあまり女子連中に注目される存在ではないほうが人生は楽しめる気がする。