『ctの深い川の町』岡崎祥久

なんとなく読んだことある作家だなあと思って自分の日記を検索したら読んでいた。しかしその内容を読み返してもどういう内容だったか全く思い出せない。ちなみに評価は[普通]で文句のほうが多い。
しかし今作は面白い。とくに奇をてらってない所にまず好感がもてるが、そのあくまで自然なリアリズムな描写でここまで世に冷めた感じが出てしまうというのもすごい事だと思う。作者の年代を調べてみれば無理もなく、まさしくシラケ世代、80年代後半に青春を過ごした戦後のシラケ第一世代である。
よく私はこの日記で何も話(ストーリー)が無いことを批判するが、それはその小説の描写−人物、心理そのものにまず面白みが感じられず、それだったら何か物語を見せてくれよっていう意味であって、描写そのものが面白ければこの小説のように話が何も始まらないようなものでもかまわない。ただしこの小説はよくある私小説的な退屈な日常を描いただけの何も無さではない。何かありそうになるが何も起きなかったり、何かが起きているが描かなかったりという感じで、その辺は作為的・意識的である。というかそもそも主人公自体、意識して何もしない人であるし。
たとえば数学の研究所に勤める美女が出てきて、その研究所かもしくは彼女を軸に何かが起きそうなものだが、彼女を偶然に2度もタクシーに乗せることになりながら何も起きない。また、ちょっと変わった同僚と昔の彼女が良い仲になりそうな所までを描きながら、その後は何も出てこない。肉体的にもっとも主人公に接近した女性はよく分からない事をいって突然姿を消す。ただしその彼女が姿を消したのは、主人公(読者)にとってそう見えるだけで、主人公が彼女の事をもう少し気にかけていれば突然の退職ではなかったわけで、この冷めぶりもすさまじい。
ただ、これはリアリズムだろうか、と私はふと考えてしまう。あそこまで接近した女性をここまで気にしないなんて事があるのだろうか、と。また、発明好きの部下に対してもいきなりタメ口か、それ以下の乱暴な口調で接したり発明品を壊したりするのだが、これだって一見リアリズムに反してはいる。
しかしこういう描写こそがこの作品を他の作品から際立たせていることは確かだし、また、現実を上手に切り取るだけでは小説としてどこか足りないのではないか、とも思う。現実をそのまま写し取るのではなく、ただし現実感を壊さずにリアリズムであること。優れた小説はそのようにして、我々の新たな内面を発見したり創造したりするものなのかもしれない。
ところで冷めぶりがすさまじいと書いたが、一方でこの主人公は自分の子供の事を忘れていないし、雨宿りしている主婦を見かけてなんとかしてやりたいと感じたり、変わった名前のコーヒーに興味を抱き頼んだりする。むしろ世に対して積極的といって良いくらいだ。ちょっと変わった趣向の喫茶店のメニューなど、いまどき我々のほとんどは気にもしないはずだ。これはあくまで冷めぶりが、このような世の中とより関わりたいという思いの裏返しであることを示唆するとともに、この小説に厚みを与えるのに成功している。町だの地理だののテーマを前面に出して冷めっぷりのみをハードボイルドふうに描くだけだったら、私は何も感じなかっただろう。