『ニッポンの小説』高橋源一郎

なんかこの連載本人は区切りをつけたがってるようなんだが、今月はまた、これなら今すぐ止めたら、の内容。
全編にわたって話題になった映画『靖国』にたいして、訴えかけるものが無かったと悪口を言っている。いわく訴えたい内容が予め出来上がっていて、映像をそれに合わせている、とか云々。
でもそれって普通じゃないのかなあ。訴えたいものがあって、それに映像を合わせて(取捨選択して)なんてのは、ドキュメンタリだろう何だろうと変わらないだろう。その見せ方が上手いか下手かの問題に過ぎないのではないか。
それに高橋は、靖国で変なことをしている人たちにも"ふだんの顔"があるはずだ、とか言うんだけど、そういうふうにして「にんげん」を忠実に描くほうこそ、近代的思想じゃないのか。言い換えれば、靖国で変なことをしている変な人たちにだって、"ふだん"があることなど我々はとっくに承知していて、「お疲れさんとビールなど飲む」姿なんて近代的発想から出てくるがゆえに誰もが容易に想像できるわけで、そんなもの描いてどうするのか。発想が貧困すぎるとしか思えない。
またそういう普段の姿など隠し撮りでもしない限り、出演者は自分は写されていると意識してしまうわけで、いずれにせよ忠実な人間像ではなく、作られたものにしかならない。この点でも考えがナイーブすぎる。
靖国』という映画に意味があるとすれば、あの場所ではふだんは普通の人が全く異常な人に変わってしまうことを描くことに意味があるのではないか、とこの高橋の評論を読みながら私は思った。台湾からきて魂を返せ、と叫ぶ女性に感動することもしくは同情することなど監督はむしろ余り求めていないのではないか。あるいは求めていたとして、それに応えなくても靖国が変な場所であることさえ感得できればいいのではないか。