『肝心の子供』磯崎憲一郎

これは評価しづらい作品。なぜかというと物語というよりは素描みたいな感じがするからで、あるいは何かからの抜粋のような感じといったらよいか。ブッダとその子、孫の生活についての描写なのだが、何かが起って何かが収束するわけでもなく、また描写の比重も誰かに偏ってもいない。それに、それぞれの妻にまで視点が設けられ彼女たちの内面が語られるのだが、それぞれのその時点での思いが描かれるだけで、その思いが二転三転したりもしない。
しいて言えば、ブッダの子供の発見による変化がいちばん大きなものとなるのだろうか。それにしても、そのブッダはいつのまにか舞台から遠ざかってしまう。
なにか、それぞれの人物がただ投げ出されてそこにある感じなのだ。
描写はといえば、城の内部に稲が綿々と穂を実らせている所のイメージとか非常に魅力的で、作者の力が十分であることを窺わせるし、文章が長くなっても読み辛さもあまりない。
もう一方の文藝賞の作品を現代的小説の典型とすれば、これは近代的小説の典型に近いのかな、と思う。もう少し物語性が強ければ、とくに。
昔の人を勝手に近代的人物の枠組みに押し込め、物語化することで近代を作り出してきたのが近代小説だとすれば、まさしくこれは、そんな文学の系譜に保守本流的にきっちり収まるそういう作品なのではないか。そんな古代の人がこんなふうに近代的な思考法で考えるか?とかそんな共約可能性だのパラダイムチェンジだのを言い出したら、確かにそうかも、とかなったりするのだろうけど、シェイクスピアとかだって古代のほうに題材を求めてたりしてるし。(あまりよく知らないけど。)
だから、こういう作品はその解釈において、たんなる再生産に収まらないだけの、斬新さを持ってなきゃならないとは思うのだけど、さてこの作品はどうかというと、他のこの手の作品をあまり読まない私にはなんとも評価し辛い。
日本において近世まであれだけ仏教というのは力があったのに、思想的な局面で宗教が語られる場合キリストのほうが多く、ブッダというのは面白い題材だとは思う。思うのだが、さてこういう小説を果たして私は読みたいかというと、ブッダについてならやっぱ思想関係の本から読まないと話にならないだろうし、それだけで私のような頭では終わっちまうだろうな。