『青色讃歌』丹下健太

著者の略歴をみると、いわゆる"失われた世代"(=日本経済が一番萎縮したときに就職期の世代)のど真ん中のようで、どうしても同情が先走ってしまうが、読後感は、なんかステロタイプな小説を読んだなというもので、あまり良くなかった事は正直に書いておく。
就職、猫の死、セックス、石からの卒業といったものが、並列的に起るのだが、その"終わりと始まり"が、いかにも小説的で、そんなに人間って簡単なのかなあ、と思ってしまった。例えばそのうちどれか一つくらい変われないものだってあっていいのではないか、その変われないものとの間での意志と心理とのズレみたいなものがあっていいのではないか、と保守的に考えてしまうのだ。もっと分かり辛くてもいいのではないか・・・。
分かり辛いというところでいえば、あまり良くない意味で分かり辛かったのが主人公のキャラクターだ。いまいちこの高橋という人物が像を結ばない。キャラとしての統一感に欠くような気がする。面接で過度にあがるような人物が、初対面の男性に啖呵を切ってみたりとか、そういうところ。
ぎゃくにその同棲相手の女性は、男からみた女性の分からなさを典型的にしたような所があって、統一感はあるものの今度は分かり易すぎる。たとえばちょっと前までのエロマンガでの女性像(ロングヘアで適度に頭が弱そうで無意識に挑発的というような)のように、この小説の女性像も純文学におけるひとつの典型からはみ出ていないように映る。
こういう小説を読むと、私は、統一感のある分かりにくい典型でないキャラと出会いたい、などと思ってしまう。それが例えばどういう事なのかについてよくよく検討したわけではないが。
「あっち」とか「こっち」という言葉に場面場面でいろんな意味を含ませたりすることは、非常に面白くて、この小説はここがあるから読める部分があるといっても良いだろう。
ただ、そういう曖昧さが曖昧なまま了解できてしまうような関係−仲間という共同体的なもの−にそれほど主人公が否定的でないのも、人物への共感という意味でこの小説の私の評価を悪くしている。あんな会話をされたならば、"「あっち」とか「こっち」ってなんなんだよ、おれが分かるまで説明しろよ"、と言ってしまうような人物に私は共感を覚える。