斎藤環の評論

いつ読んでも、なんか退屈。
そもそも心理学だの社会学だの医学だのというのは一般論の世界であって、そこに当てはまらないものを「特殊」としてオミットしてしまうわけだけど、そのこぼれ落ちた「特殊」を「個」とみて同等にシンパシーをもって掬っていくのが文学であり、歴史、宗教なんだ、とか思ったりする。
また、小説の作者にとってはおそらく、自分が書いたキャラというのは、唯一無比でありだからこそ愛すべき存在となるわけで、「一般」に還元されてしまったらばあまり気持ちの良くない事態であって、下手すれば書く意味を失いかねない、と思うのだけど。(科学で説明できる事態をいちいちひとは文学にするだろうか。)
というわけで、小説やその主人公を科学的に説明することは、本来的に退屈なものになりかねず、よほど文章に工夫を加えないと、ということになる。
その点が斎藤氏の場合弱い。なんか古臭く気取った学者文体、翻訳文体で、「さて、私はここで、川上の小説を取り上げなければならない」とか書かれると、どこにそんな必要あるの、「取り上げたい」でいいじゃん、書くも書かないもあんたの自由なんだからさ、とか言いたくなってイライラしてしまう。