『ピカルディーの三度』鹿島田真希

いや読んで損したなあ、これは。
もともと新潮に載った『6000度の愛』(だったっけ?題名)からして至極退屈で途中で止めていたのだから、期待するほうがどうかしていた、といえばそれまでなのだが。
男性主人公のモノローグというスタイルで、鹿島田という評価の高めの作家がどこまで書けるものなのか見てみたいってのもあったんだよなあ。


まず最初に糞をみせて、とか言ってる時点でもうアウト。
アホか。
どこの世界に初日か二日めだか知らないが、イキナリあんたのウンコを見てみたいからとか言って洗面器を出す音楽教師がいるのか。
もちろん文学的フィクションだから、実際にいようがいまいが関係ないんだろうが、そんな話はハッキリいって読みたくない。
だって楽しくないもん。
楽しいか?これ。


またとりわけ純文学的なフィクションというのは、ありえない的事象が出てくるのは頻繁にあるんだが、どこかしら作品のなかにリアル感がないとついてはいけない。
とくに心境のレベルにおいて。
そういういみで、この男子高校生の独白には、どこにもリアル感がないのだ。
教師への愛が芽生える過程にも、愛の強さにおいても、それは感じられない。
ただ言葉を連ねているだけ。


言葉とか、文章とかいったものと共に生きていかねばならない覚悟みたいなものにしたって、切迫感もほとんど感じられないし、いかにも表層的だ。
表層的なのが、ひょっとしたら作者の狙いなのかもしれないが、だとしたらこちらとしては作者の遊びにつきあってしまったとしか思えないわけで、まったく時間の無駄であった。


時間かえせ。


※そういえば同じ群像の4月号の鼎談で、この作品に対して皆煮え切らない誉め方をしていたが、どこがいいのかという点で納得させる視点を出しているものはゼロ。
そんなに将来的に芥川賞を取りかねないような作家をけなすのがイヤかね。絲山秋子なんかは、にせものっぽくて面白い、とか訳の分からないことを言って誉めている。
狙ってにせものを書けばにせものでもいいっていう事なのかどうか分からんが、にせものはにせものでしかない。
こんな作品を喜んで読むのは、相当暇な純文学好きだけだろう。読者を限定するような作品を誉めすぎ。