『文學界』古本にて

たまたま古本屋で手に入れた一年位前の文學界の巻末のページに、高橋源一郎の書いたこととして、こんなような事が書いてあった。
「面白い」という言葉は、何も言っていないに等しい言葉だ、云々。
ありゃりゃ、この日記ブログのレゾンデートルを揺るがしかねないお言葉。


巻末氏(たしか相馬なんとかさん)は、とはいえ、面白くなければ誰が買うか、とも書いていたが、もちろんそれは、高橋源一郎がどんな文脈で言ったのかということなど、どうでもいいくらい当たり前のこと。
文学が、面白さなどと関係なく学問的な評価でしか読まれるべきでないとしたら、純文学など滅びるだろうね。
まるで現代詩のような状況になって、純文学作家なんてのは、作家だけではやっていけなくなるだろう。


学者でもない人間が、面白くも無いものにカネなど出すわけないだろう。
高橋源一郎があちこち審査員をやってる文学賞のお金はどっかから生まれて出てくるわけじゃないのにね。


まあ、群像新人賞を頂点として、(小説に関しては)どんどん面白くなくなっている作家としては、面白い面白くないという判断軸にたいして何か言いたいのかもしれないけれども。
(正確にはどんどん面白くなくなっているのは、ある時点まで。高橋源一郎は私にとってほとんどフォローする気のない作家となっていて、ここ数年の彼の小説作品は、一行も読んでいない。)


また文學界の別の号だったか忘れたが、高橋が書いていることで、保坂和志と対談したらしく、綿矢りさの短編を二人とも絶賛しているようだ。近代文学にとどめを刺したとか。
私のなかでは停滞しまくりのこの2人にここまで誉められると、それだけで興味が失せるという事になりかねないので、あまりいろいろ書かないで欲しいんだけど。
(いや、私が読まなければいいんだ。ちょっと自戒。)


今ふと思ったんだけど、高橋源一郎って、対談とか批評とかで、対立したりとか否定的言辞とかあまり目にしない気がする。気が合ったり相手の意見に感心したり、という肯定的な言及の分量のほうが多くない?
なんなんだろうね。
どうでもいいけど。
 ※2007.4.13改稿