『群像』 2008.11 読切作品

クレジットクランチの話の続きですが、TVをボケーっと見ていたらニュース解説的番組で、GMとフォードの時価総額が3000億円前後で、いすゞやスバルと変わらなくなってました。(ちなみにトヨタは11兆円です。)
異常ですよね。いや、株価は先を見るのでこれから異常な事が起こるのか・・・?
いやいや。年金の運用とか考えるともう起こってますよね。問題はどこまで酷くなるかというだけなんでしょう。
文学というカネのかからない事趣味にしていて良かったです。


良かった作品については最新号でも書いちゃいます。

『ポトスライムの舟』津村記久子

今月の必読小説。先月の佐川さんに続いて『群像』が2連勝といったところ。
そしてテーマも共通する。「労働」だ。あくまで勝手な解釈だけど。
津村記久子の別の作品を読んで、OLの日常を切り取りました的な、たとえば柴崎友香のような作家と思っている人がいたら、間違ってますよ、と。今作こそが津村なんだと私は言ってあげたい。うろ覚えだが、どっかの評論家に、この作家はどんどん書ける人だから直木賞にシフトしてもイケるみたいな誉めてるんだかなんだか良く分からない事を言われてたし、でもたしかに前作はややコミカルな所が前面に出ていたしで、なんだろうなあ違うんだけどなあという思いがあったのだが、私の中のその霧は見事に晴れた。こういう作家が今いることに感謝したい。
大げさ?いや、全くそんな事はない。上場企業の3分の1くらいの薄給の単純労働に従するような、しかもそれだけでなく慢性的な咳にもめげずその仕事を続けてしまうような人を主人公にした小説がどれほどあるのか、という事だ。まして主人公に据えるだけでなく、どうしてその仕事に従事するのかという所まで主人公に寄り添って書ける人がどれほどいるのか。たとえ貧困に目を向けてはいても、純文学がマイナーであるがごとく、マイナーでしかない側、ドロップアウトしてしまった人間ばかりではないか。もちろんそういう立場も非常に重要なのだが、マイナーでしかない側にいることがアイデンティティのように慢性化しているような気風の人物ばかりなのだ。
そう、津村作品の主人公たちは皆、ドロップアウトしないのである。津村作品の主人公たちは、何より人の間にいようとする。何度も絶賛している『ハムラビ法典』では、ホテルが用意したような似非神父が出てくるようなごく普通の結婚式を挙げたりするが、純文学を読む人はそんな結婚式など恐らく馬鹿にして絶対にしないし書くほうも余り書かないだろう。しかし人の間にいればこんな場面ばかりなのだ。
で、同じ人の間にいても、幾度も否定的言及して申し訳ないが、たとえば柴崎の作品には、自他のはっきりしない「仲間」みたいな人物しかでてこないが、ここには「他者」がいるのだ。一方では、まず自分があって好きなことがあって、自分がここにいるのは自分がここにいたいと思っているからみたいなオメデタさしか感じないが、津村作品の主人公には、自分が生きているのはある意味生かされているから、みたいな意識を感じる。それは、しがらみや世間体によってかもしれない。「しがらみ」とか「世間体」などという単語だと否定的にしか感じられないが、言い換えれば「人々」である。人々によって生かされている、という意識・・・・・・。
かといって、津村作品の主人公たちが主体性のない流されまくってる人物かというとそうではない。たしかに、多くの場合主人公にはそれほど強固な信念も、何かへ対しての情熱も持たなかったりするが、それは分かりやすく言語化されていないだけで、確かな芯みたいなものはあるのだ。倫理と表現しても良いかもしれない。主人公たちは、拒絶すべきときは拒絶するのである。分かりやすいところではこの小説では、普通のOLとしての仕事を拒絶する。「他者」の間にあってこそ、それによって自分を照射し自己が成り立つわけで、「他者⇔自己」の交通が津村作品では、リアルな見事なバランスで描かれているのだ。
ここでもう一つ注目なのが、津村作品の主人公の多くが「頼られる人」であるという事だ。前作では分かりやすくスピーチまで引き受けていたが、今作でも友人の喫茶店を手伝い、夫から逃げた母子を匿い、休日を惜しんで教室で教えたりする。まさしく人の間にあるという事。誰にも頼らずやってます一匹狼で生きてますみたいな小説もときに見かけるが、この小説から比べれば、あーかっこいいでしゅねー、という感想しかない。世間に生きる多くの人々は、このように頼り頼られのなかで、生きているのだ。それによって無意識に自己の存在意義を得ていたりする。現代に生きる人間の本質的ともいえる弱さを一度通過しないと、こういう作品は生まれないだろうな、と思う。
ところで先ほど「自己⇔他者」とか、「仲間」がいないとか書いたが、証拠がある。この小説では、大学時代の友人4人の中で、まさしく「仲間」を求めようとする人物がでてきて、普通の主婦をしている彼女は否定的に描かれるのだ。主人公がはっきり嫌っているわけではないが、より友人である人物の嫌悪を通して否定的に描く。「仲間」でいられるのは全ての人が平等に卒業できる大学まででしかない事が飲み込めず、相変わらず自分と同じ「仲間」を求めるような人物を。
そしてまた、主人公は一度同期の男性社員と「仲間」であることを拒否している。「仲間」のような対称的なコミュニケーションの虚構に耐えられなくなったのだろう。大学みたいな鳥かごを出てしまえば、「仲間」はいつかは突き落としたり突き落とされたりする関係にしかならない。そうならない為には悪事と思われるものにも協同しなければならない。頼ってしまえば、見返りを要求される。そのような嘘の関係に耐えられなくなったのだ。(ついでに足しておくと、今ラストを少し読み返したら、主人公が働く工場のラインに大卒の27歳で4年の職務経験がある女性が新人としてくることになり、ここで主人公は、その人がどうしてこの工場にきたかについては考えないことにした、という。自分のかつての体験を追体験してしまう恐怖感なのかもしれないが、実はここでも主人公は「仲間」を拒否している。)
現実の世には、当座何もお返しできない頼るしかない弱い人もいれば、起業する人間もいるし、ベテランもいればビギナーもいる。非対称な関係ばかり。そのような非対称な関係のなかでこそ、津村作品の主人公は「頼られる」事ができるのだ。非対称だからこそ、下が上を頼るのは当たり前でもあるからして、気を病むことなく。弱いといってしまえばそれまでだが、こういう弱さを、見ようとしないか、あるいは見る回路も自分のなかに無いほど鈍感であるより遥かにマシであることは言うまでも無い。
ポトスライムの、無闇に増殖するたくましさと、結局食えないという意味の無さを、しかし生きているという希望みたいなものを、主人公の労働者的人生の対照として描くことで確かに幅が出たが、こういういかにも純文学的なメタファが無くても私はこの小説は素晴らしい小説だと思う。

『快適な生活』松井周

前作がそこそこ面白かったような記憶で読み始めたが、女装という、たしかに扱っている世界は面白い。しかし、この自棄的な虚無感にいたる過程の説得力が少し弱い気がする。それとその自棄が中途半端でもある。もっと自分を捨てるなら、こんな女装なんかしたって、と更に一段ラストへ向かって自棄的にどこかでなると思うのだがそれは無いし、無いならば、女装の実行へ至る前段階でもっと逡巡があるのではないだろうか。
しかしもしかしたら、ここで描かれている虚無は、私が普通と考える行動よりも逸脱するほど深い、そんなところへ行ってしまっているのかもしれない。そういう空気は感じなくもない。書くことが半ば無意識に自然とそのまま空虚とならざるを得ないような、そういったメタ小説的なリアルさはある。
ただせっかくサラリーマンを主人公にしながら、アウトサイダー以外の何者でもないだよなあ。サラリーマンであることの何かが出ていない。