『ディスカス忌』小山田浩子

下半期の新潮掲載作ナンバーワン作品。つーか、他の文芸誌含めても一番記憶に残っているかも。短編ということなら、下半期も今年もなく相当上位にくる作品。と、これだけではまだ言い足りないなあ。短編で、これだけ豊かな内容を持ったものに今までの人生で出会った記憶がない、と言い切ってしまおう。(お前のばあい読んでいる絶対数が少ないんだから褒めすぎ、て言われれば、まあそうではあるのだけれど。)
「生と死」。生まれるって何なの?生きていることに意味なんてあるの?死ぬってどういうこと?そういう普遍的なテーマをもとに組み立てられていながら、さらに尚、いまだからこそのこの内容という所があるのが、まず素晴らしい。つまりは、平たく言えば昨今言われている階層社会化のもんだい。豊かさが上からあふれて下へ徐々に流れていくほどに生み出された時代から、残されたパイを巡って争い、敗れたものはもう勝負には加われず上からのあぶれを待っていてもなかなか来ない時代へと移ろうとしている今だからこそ、という。
そこに、普遍的な、気まぐれとしか言えない不条理的な要素、本人の希望にも資質にも行状にもなんもかかわらず、あらかじめある者は資産のある家に生まれ何もしないでも一生食べていけ、ある者は小さいときから誰かのモノをかすめ取らないと食べていけない。また、ある者はいくら医者に通っても子宝に恵まれず、ある者は結婚する気もない女をはらませる・・・・・・。そういう要素までをも絡めて、様々な生の様相を描きだす。
それだけでなく、題名にもあるとおり、熱帯魚という、生命を人間にコントロールされた存在までが対比されるのだが、分かりやすいあざとさを全く感じさせずに、それによってますます「いのち」について読む者に深く感じ入らせる手腕は、いくら褒めても許される気がする。会話などに顕著な、厳密なリアリズム性からは少しずれた小説的リアリズムとしか言いようのない文体は、ちょっと昔の日本映画ふう(つい中井貴一の父親とか思いだしそうになるような)でもあるのだけれど、それがまた登場人物に絶妙な距離感を出すことに成功していて、それもまた内容に寄与している。すごいなあ。
親に資産がありだから儲けるつもりもなく遊びで熱帯魚屋をやっていた若い男性が死んでしまう、その男性と子宝に恵まれない主人公男性との友人を通した生前のひとときの交流が話の中心なのだが、その資産家の虚無っぷりと、あけすけな傲慢さ、がいい。その一方で赤子の誕生を無邪気に喜んでみたりもして、複雑さを感じさせる。すこしばかり傲慢かもしれないけれども、熱帯魚=生命を持つものが好きであって、けっして酷薄ではないのだ。この人の、人の出会いのその身も蓋もない結局性について喝破したところのセリフが妙にあたまに残るのだが、当然のことだが、こういう恵まれた人間であっても生というものに向き合っていることが伺われて、いや考える暇と余裕があるからより向き合えるのかもしれないが、ともかくそれでいて、変に篤志家みたいなものにもならず漫然としてしまうのもリアルだ。(この人の死を自殺などではなく困難な病があったと考えると解釈も違ってくるのだが、そういう可能性も残しているところもこの小説のいいところ。)
いってみれば、ここにある生も間違いなくひとつの実存、カタチであって、どんなに金があっても人は希望から遠ざかれるし、で、その絶望に、持たざる者も共感を抱くことができるというのは、いまさらながらすごい事だと思う。
階層化云々いわれるなかで、このようにひとつひとつ名前のある形で人々が結びつくことができれば、とも思わせるものがあるが、残念ながら、匿名性と効率化でより多くの利得物をえてしまった社会にいま我々はいる。で、むろん掛け声だけで後戻りできるものではない。にも関わらず、いつなんどきルサンチマンが奔出しないとも限らない昨今の状況にある(私などその中心に近いところにいたりして)。
しかし、しかしだからこそ、こういう小説を誰もが、いやそこまでは望めなくとも、一人でも多くが胸に抱いて生きていかねばならないのではないだろうか。あまりに小さな歯止めでしかないかもしれないが、この小説が内容において安易な希望を描かなかったぶん、より大きなメタな所で小説の存在そのものが希望と思う。(私にはなかなか到達できない地点にあるからこそ、なんだが。)