『新潮』 2012.1 読切作品

吉本隆明、べつに何の感慨もないです。むかし古本屋の安売りワゴンで言語にとって美とはなんぞやとかそんなふうな題名のものを100円くらいで買った覚えはあるものの、いま本棚に「吉本〜」という名前は皆無です。


3月11日過ぎましたが、最初の感慨は(長い一年だったな)というものでした。歳くってからこんなふうに一年を感じることはなかったです。やはり正直いってしまえば、対岸の火事だった、ということなのでしょうか。いつのまにか、「日常」が回復してしまっていて、あの出来事を遠くのように感じて、それで長かったなと感じるのでしょう。
どっかの新聞のコラムのように、もう一年かあっという間だったな、とか嘘くさいことは書きません。
なんで嘘くさいかというと、当時まるで戦時中のような論調で原発事故処理に向かう人たちを鼓舞するようなことをこの新聞が書いていたのを忘れていないからです。


そういえば、いつのまにかこの新聞が瓦礫の広域処理に賛意を示すようになったのも、これじゃ全く政府が瓦礫処理で後手後手に回ったことに文句を言う資格なんてないぜ、って話です。今頃になって後追いかって。
まあ社説で、東北の瓦礫に関して「放射能に汚染されていない可能性もゼロではない」とか書いているようですから、元々どうしようもないんですけどね。過去の核実験や各地の原発事故の拡散で、放射能に汚染されていない土地なんてどこにもねー九州だろうが沖縄だろうがいっしょ、もんだいは量だってのが、この一年で学んだ事なのに。
こういう大新聞までがゼロでなきゃだめだみたいなニュアンスでいうってのは、ようするに、福島の人たちはケガレでどうやっても救えないみたいな世間の扱いについて何の思いもないってことですよね。
被災地で焼却場立てたほうが雇用も生まれるし、とかいう連中もいますしね。これが一番アタマに来ます。キタナイところに住む人にカネ与えてキタナイ仕事って、原子力発電所を地方に生んだ発想そのまんまじゃないですか。はやく瓦礫どかして、永続的な街並と職業でしょ。