『工場』小山田浩子

ひとこと。素晴らしい。
著者には悪いが(なぜ悪いかは説明省く)、私の中では大絶賛である。笑わせるという意味ではなく、面白いところ、数知れずという感じである。
インタビューを信じるなら、初めての長編作品でこれほどのものが書けるというのは、モノが違っている、しかもこの若さで。考えられた構成、的確な人物描写、ユーモアある文章表現、「文学的な」比喩を用いないのに深化するイメージ、等々。
そしてそれら技術だけではない。問題意識の感じ方がきわめて真っ当であるということ。それが見事に、描かれる世界の構築に作用している。この問題意識なくして、いくら奇妙な現代社会を描こうとしても書けまい。書いてもマッチしまい。
面白い所その一。ひとつの異なるコードを有する会社(ここでは「工場」)の有様がよく出ている。外部の人間には全く不思議なのだがしかし、内部の人間になってしまえば苦も無く受け入れてしまうコード。コードというものはそういうものだ。例えば、派遣社員同士の宴会で言われる「コマーシャル」ということば。ここが私には、可笑しくてしょうがない。宴会で「とんだコマーシャルです」と言うところなど、この意味不明さが衝撃で傑作だわ。
また、工場内部での車の運転の行儀よさ。わざとらしい礼儀正しさなのだが、当人達にとってはものすごく自然な歩行者との挨拶。これもここだけのコード。またモノを運ぶ業務の社員を「UNYU」と呼ぶことが、内部の人には、少しも可笑しいものになっていない事もそうだろう。よく考えるとすごく可笑しいのだが。
面白い所その二。いわゆる「会社人間」の、会社人間らしさの的確な描写ぶり。まず、正社員の外部へのバカみたいな慇懃無礼さ、内部への一転した横柄さの描写。「後藤」のことだ。最初の面接のときから、重要でない面接と分かれば言葉は丁寧でも対応そっちのけみたいな、そのそっちのけの感じがまさに、あるあるといいたくなる。この種のリアルさは派遣社員に挨拶されたときの正社員の驚きだとか、いたる所にあるのだが、もう少し挙げるとすれば、シュレッダー部で最初に仕事を教わる、姉さんだかオバサンだか分からない女性が自然に、少女っぽくくるりと廻るところも最高だ。この感じ。これと同じでような行動ではないのに、こういう人はいるんだよまさに!
派遣会社の正社員である兄の恋人は、ちょっと悪く書きすぎたかもしれないが、妹の視点から、彼女の食事の様子を細かに描いていくところも面白い。エビフライのタルタルソースをこそげとり、キャベツにぬりたくって食べるところなど坊主憎けりゃ袈裟までと、悪意がどんどんつのっていくかのようでもあり、この意味も無い細やかさが正社員って奴なんだな、とか思ったり。
面白い所その三。非リアリズムという点を生かして、徹底して会社のやっている事を意味のありそうななさそうなものとして描いているところ。たとえば主人公の一人が最初に配置される部署名とか。もちろん実際には、現実の会社のやっている事にはそれぞれ意味があるのだが、もっともっと大きな視点から徹底して考えれば、それほど意味があるのか、という事だ。少なくとも自分の実存を賭けるほどの意味などないだろう。それなのに、働いているとなぜか没入してしまう不思議さ。内部の人間になってしまう不思議さ。会社人間が世にこれほどウヨウヨいる不思議さ。それを浮かびあげている。
面白い所その四。コケ博士が面白い。この人が教授に説得させられ、会社に就職するまでが抜群に面白くて、屋上緑化なんてシートがありますよ、と幾度も繰り返すが問題にされないところなど。この人は一人だけの部署のせいか、内部の人間になりきれず、老人と孫と会話するときとか、コケ観察会で正論をしっかり述べる(ときに諦めるが)その様子が可笑しい。わらじコロッケの中身をわざわざ心の中で訂正したり、森の中で鰻重を食べたりするのも研究者らしくなんか可笑しい。
面白い所その五。ユーモア。前述のコケ博士との会話で老人が「先生が鋭いことを言うので話がさきに進まない」と言うところなど今すぐに思ったのだが、たとえばコケ観察会を「こけかんさつかい」とかなで書くと何だか妙に可笑しいのだが、そういうユーモアがとにかくあって、沖縄料理店で会話が店主と交錯するところとか、ぱっと今開いて読み返しても楽しめる。しかも、その可笑しさが狙っていない感じで、もちろんこれだけ知的な構成をしているのだから狙っているのだけど、絶妙だから狙っていても不快ではないのだ。校正という仕事にまつわるパラドックスの話などもこのユーモアに入る部分だし、ひとつの深刻さでもある。
面白い所その六。正社員と非正規との扱いの垣根がキチンんと描かれていて、それがまたリアルであること。いきなり説明無しにパーテーションを入れられる所が秀逸。朝礼に参加しなくて良いのはどこでもありそうだけれど。そして、その説明無しを、受け入れてしまうところ。これに易々と抵抗してしまう様を描くとしたらそれは二流の小説であって、受け入れるのだよね。ここにもコードがあるから。それでこそ、小説のなかに人間がいるということなのだ。この受け入れるという事に関しては、自然ではなく思弁的に受け入れる箇所もあって(こんな下らない仕事でも働けるだけ幸せみたいに)、これもまたこれで、よく分かるし、マッチした心情だろう。
面白い所はこれだけではないのだが、ただ誉め言葉ならべるだけになってきたので、最後に若干の苦言的なことをいうと黒い鳥、ヌートリアが、工場内の人間のメタファーであることをにおわせつつ、それぞれ登場人物がそれになってしまうのは、やや予想の範囲内すぎたかな、と。
あ、あとひとつ挙げとこ、シュレッダーの彼女と、コケ博士が、それぞれの主観のなかで青白い不健康な人とほおの垂れた人として、他人の表情をいきなり露にするところも、ここは驚きがあり面白かった。
新潮新人賞、この一作だけで救われたといっても過言ではないだろう。