『村上春樹の云々』加藤典洋

村上春樹にも、まして加藤にも興味が無いので最初から読む気がしないものの、せっかく買った雑誌にのっているものだからとざっと目を通すが、ある箇所で、まさか加藤が自分の考えを吉本隆明とか、いや吉本はともかくも親鸞になぞらえるとは思っていなくて、ちょっと通しただけのつもりの目が点になった。
加藤によれば、なんでも、日本の戦争の死者(と曖昧な書き方をしているが、戦って死んだ者か、空襲などで死んだ者も含まれるのかがよく分からないし、この議論はここを明確にしないと始まらない)を哀悼することこそが、アジアの死者に謝罪することに続くらしく、その哀悼することは、イコール私利私欲をつきつめることであって、そこから公共へと続く道を見つけないと公共の基盤は確かなものにならない、とな。
何を言ってるんだか。他国のだろうが自国のだろうが戦死者を哀悼することはそれ自体、公共の振る舞いに属すること以外の何ものでもないじゃん。
そもそも、この国の人間は、戦後すぐに、戦争やその担い手を犯罪と切って捨て経済活動に邁進する形で、いうまでもなく私利私欲を突き詰めてきたのだ。つまりは私利私欲が哀悼と直結しないくらい、戦時中からすでに、国民それぞれの私と公は(いかにも近代国家らしく)分離していたのではないか。だから公が「民主主義」となれば、「大東亜共栄圏」から簡単にすげ替ることができた。そして哀悼をシカトした。私利私欲=哀悼じゃないのだ。そこで哀悼をいうならば、したがって、哀悼は公的な行為とならざるを得ないのではないか。
もっといえば、かつてこの国は経済成長第一という私利私欲をつらぬいた果てに、一億総懺悔の延長で他国の戦死者に少なくとも形の上では謝罪してきた。公なのだから、形だけでもまあ十分だろう。つまり、加藤の描くように、私の果てに公が確固としたものになっていた。正確にいうと、そのように見えた。がしかし、バブルがはじけ経済成長が危うくなり、中国が驚異的な成長を見せたりすると、もう素直には謝れない。平気で中国に何度謝れば気が済むんだお前らは、とか言い出す(たいてい実際には一度も謝ってないような世代の奴なんだが)。結局私利私欲を通じた謝罪が、ちっとも確固たるものになってないじゃん、て事。
謝罪を確固たるにするためには、どうしたらよいか。これは呆れるくらい単純な話だ。ひたすら自らが行ったことに向き合う以外にない。戦争犯罪的なものは皆そのようにして決着が試みられたのではないか? 例えば、アメリカの大統領がなぜ広島に来ることがこんにちもこれほど困難なのか。現場に来ることはイコール自らの行為に向き合うことであり、それは謝罪につながりかねないからこそ、だ。例えば、アメリカの元兵士が被爆者の写真などをあまり見たがらないのは何故なのかといえば、謝罪の感情が優先して起きてしまうのを恐れるからだろう。あれは戦争終結を早めた正しい作戦だったんだという信念がなければ、とくに具体的に原爆作戦に従事した兵士などはやっていけるものではない。
この国で謝罪が確固としない理由は、だからこれも簡単だ。アメリカが途中で罪に向き合うことについてうやむやにしてよいよ、みたいな態度になった(赤化脅威論のもとで保守派をバックアップした)んでそれを良いことにうやむやにしたのだ。アメリカが態度変えたんで、極端な犯罪者以外は向き合わずに済んだ。アメリカがそうならばと、本来なら自ら向き合わねばならなかったのだけど、それをしたのは反米の左翼だけだ。
そもそもが「謝罪」だ。字面を見るだけでいい。「罪」に向き合うことを第一にしなくてどうして「謝罪」などありえよう。「哀悼」すれば罪に向き合わなくても「謝罪」が可能になるのか?そんな無理な事はあるまい。
しかしこんな簡単な理屈を分かろうとせずあーだこうだと話をややこしくして謝罪を遅らせよう遅らせようとするこの国って何なんだろうね。いや国ではないか。そういう人は加藤だけなのかもしれないし。
ちなみに私は哀悼なんて必要なしなどと言うつもりは全くない。というか逆。そして肝心のこの評論の主題の部分に関しては精読していないのでノーコメント。もしかしたらとても有用で面白い村上春樹論かもしれない事は付け加えねばなるまい。