『シレーヌと海老』広小路尚祈

同じ助詞や、体言止めなどをたたみかけるように記述して、心地よいリズムを感じさせる箇所が所々にある。あまり目立つとか鼻につくほど弄り回していない平易な文章であるけど、これは結構練られたものではないか、と思う。俳句というか、短歌というか、定型詩に近いものを感じた。そういう意味では、内容ではなく文章そのものを楽しめるという、小説の楽しみの中の一つは確実に備えていると思う。日本語の魅力を引き出している、と言ったらいいか。
また、途中からいっときの例えとして出てきた天ぷらの海老が、話が進むにつれ、これが自分の海老なんだとか、登場人物の会話の中ですら、中心の概念みたいなものにいつの間にかなっていくのも面白かった。
この作者は群像で出てきたとき町田康の影響を指摘され、それは題名からして連想させてしまうものだったのだが、今作になってその点はどうかというと、むしろ文体そのものよりもテーマというかモチーフにおいて似通ったものを感じさせるものがあったりする。
というのは、この作品において一番心に残るというか、私は一週間以上前にこの作品を読んだので、今一番強く何が印象に残っているかというと、田舎から東京(というか川崎なんだが、ほぼ東京だろう)に出てきた主人公の、その友人の妻の都会的な部分に対する違和感と敵視なのである。ちょっと不自然に思えるくらいのかなりの分量をもって、この妻の自分の子供に対するやり方への疑義を述べているのだ。もちろんラストにかけて、等身大の人形だとかそういうものが出てくる所も奇異なだけに記憶には残っているのだが、今パラパラと見返して、絵描きの話とか売春婦の話とか出てくるのだが、そういう所は余り残っていない。そういえば、こういう故郷に埋没する覚悟とか、そういう部分もけっこうな比重で書かれていたんだっけ、そうだったっけ、という感じなのだ。作中に出てくる絵の凄さに関しても、藤野可織の作品をその前に読んでいたせいか、どうしてもあちらのほうが架空の造形として良く出来ていたなあ、となってしまう。
でモチーフに話を戻すと、結局、町田作品に出てくる偽の世界という感じなのだ。この作品で描かれる川崎の高層マンションの住人は、自分にとって偽の世界に住む、偽の人。町田康の近作で、ベンチャー企業が偽の世界として描かれていたのを思い出す。
むろん都会的なものに反感を持つのも構わない。田舎に埋没する覚悟も、地方切捨てとかこういう世の中だけに今日的な重要さも持つだろう。がしかしやはり今一歩物足りないのだ。これでは、友人の妻は自分の立ち位置を確認するためのダシでしかなくなっている。もっと彼女から自分への反感でもいいから何某かを引き出すべきなのだ、と思う。あるいは、この友人の夫婦関係の崩壊まで描くべきだ、と。
完全にこれでは切断されてしまっていて、関係のない世界の人同士で終わる。自分の子供に真に成長する事を呼びかけておきながら、大人ふたりで子供時代の過去の感傷に浸って「大人」との対決を避ける。もちろんこの程度で対決しないのも大人の態度だが、別に主人公や友人に、友人妻とケンカをしろという訳ではない。ただ、子供に成長を言いながら自らは子供の世界、そんな世界を大事だと言われても、いま一つ説得力に欠くという事だ。
また、この主人公の逃げた妻の主人公のなかでのあまりの存在感の無さも、気になった点のひとつであることも挙げておきたい。