『霊降ろし』田山朔美

連載も含め、今月の文學界の全てのコンテンツのなかで一番楽しめたのがコレ。
女子高生を主人公に、親類の知り合いのオバサンにニセ霊媒師をやらされる日々を描く。こういう設定も他にあまりないもので、あまりないという事は確かにリアリズムという点では微妙だが、大きくはみ出すものでもないように感じた。純文学でありながら、同時に読者に興味を持たせるような設定を試み、お話らしきものを作っていこうとする作者の姿勢には好感が持てる。これは非常に難しいと思う。我々のまわりにはそんな興味深い話など転がってるわけではないからリアルな純文学を貫こうとすればどうしても退屈になるし、かといって、設定を大胆なものにしても、いたずらに純文学らしさを意識しすぎてしまえばせっかくのお話もつまらなくしてしまう場合もあるからだ。
この小説は、霊媒とか占いとかいったものが、90%は推測的事実に支えられたカウンセリングに過ぎないという点や、かといって残りの10%こそが大事である点も色々なケースを描くことによってきっちり描いている。最初から最後まで緊張感が持続し、無駄が無いのだ。母親のなぜこの少女が霊媒師をやらねばならないか、とか、母親の身に過去に起こった事の出来事が徐々に明かされていく叙述のタイミングも良い。
で、この無駄の無さは女子高生を主人公にしたお陰でもあるだろう。風景の描写や内面の記述が、女子高生の一人称としてより自然なのだ。私は、この小説の特徴の一つでもあるここにも感心した。一人称小説のリアルさとはこういうものではないのか。取り立てて文学好きでもない限り、女子高生の心理など、むしろこのくらい単純なのではないか。もちろん女子高生をバカにしているわけではない。単純であるという事と、明快で全て分かられてしまうという事はイコールではない。単純な言葉で表現できないような思いは多くの女子高生ももちろん抱えているだろう。それを文学的な言葉で表現してしまおうとするのはちょっと違うのではないか、という事だ。
ところで正直、ちょっとこれは、という部分がこの小説、無いわけではなかった。目立つ所では、悪徳オバサンのだんなのキャラや、学校の屋上での級友との交わりなどは、ややテレビドラマ的類型さを帯びている。しかしそれを補って余りあるものが、この小説にはある。悪徳オバサンの極めて俗物的な暴力性と、主人公の母親の悪意のない、無垢な言葉の暴力性の対比が素晴らしい。そしてこの悪徳オバサンにしたって、100%悪意ではなく、超常的なものを全く信じていないわけでもない部分が窺える。ある種の他者の分からなさを感じさせるバランスが保たれている。
とくに悪徳オバサンの小ざかしい、これまで主人公の母親を自由に操ってきた理屈が、その理路整然とした理屈ゆえに徐々に自身の理屈を変質させていた母親に全く逆の反応を呼び起こし、両者の関係が一変してしまう所はハイライトだろう。このような悪意のない狂気の方が、よほど怖くて、ときにどんな手馴れた者でも手に負えないということ。単純に書けば、他人って怖いね、と。(これがうまく出てると、私の評価は高くなる。)
主人公がときにほんとうに霊が乗り移ってしまうかのようになってしまう所は、どうなんだろうと最初は思ったが、これも文学のうちにとどまっていると私は思う。なぜならば、最後に自身の姉を呼ぶところで、はっきりと姉の霊を出さなかったからだ。ここ出していれば、全くこの小説違ったものになったのではないか。あくまで主人公の思い込みと言える範囲においたのが非常に良かった。姉の霊は来たともいえるし、そうでないようにも思える。ここでギリギリ文学の内にとどまり、一方では、本当に乗り移ったかのような描写があったりして、この主人公少女の資質に関してひょっとしたらという部分も残した。あえて断定せず、不可知なところを残したのが作品として成功している好例と思う。