『女の庭』鹿島田真希

長野まゆみという全く興味の湧かない作家の特集号であったが、季刊のこれを図書館で貸与可能になるまで待つのも面倒なので買ってしまった。目的のほとんどがこの作品。
結論からいうと、しかも極めて適当でぶっちゃけた言い方をしてしまうと、『ピカルディーの三度』と『女小説家の一日』を足して2で割ったような作品。専業主婦の独白が最後まで延々と続くのだが、その内容は『女小説家〜』のようなシリアスなものではなく、人を食ったような内容。専業主婦を小馬鹿にしているかのような内容なのだ。具体的にいうと、井戸端会議に出なくちゃ、とか、退屈な昼ドラをやることないので見てるとか、一日一日がそんなどうでも良いことが中心になっている様から小説はスタートする。文体も「〜だわ」「〜かしら」を多用した不自然なまでの女性口語体。この意図的な不自然さはもはや私にとっては鹿島田らしさと言い換えてもいいようなものにまでなってるのだが、このような文体も手伝って主人公に知性の低さを意識させる。
つまりは、普通ならシンパシーを抱けないような安穏とした暮らしをしている、しかも純文学があまり主人公としないような知的レベルの女性が主人公なのだ。しかし、筆力のある作家は違う。このような人間であっても、その苦悩に徐々に説得力を感じてきてしまうのだ。主人公のとなりに外国人が越してきて、彼女の境遇に自分を重ね合わせて考えるあたりから、徐々に蝕むように。
また、夫との間柄もまたこれで不満などあろうかというくらい、夫が理解者なのだが、わがままにもそれは真に分かっているわけではないみたいな思われ方をされる。となれば、よくあるパターンとして、もっとその間に亀裂が入ろうものだが、この作品の面白いところは、この微妙な夫婦関係をも主人公女性が受け入れるところで、その受け入れにともなう哀しさに満ちた描写は説得力ある。とくに、クイズ番組をみながら、この人いつも珍回答ばかりしておかしいわね、などと、じつに全くどうでも良い会話をするところなどは、濃厚に悲しみを漂わせる。私にとって一番心に届いたシーンはじつはここである。
全くどうでも良い会話が、真摯な感情にとらわれた人間から発せられることというのは、確実にあるのだ。そしてその真摯な感情は、真正面から受け止めるべきものではない。そのような意図を持って発せられていないのだから。だから、無関心すら装いどうでも良い会話を続けてしまったりするのだが、本心から無関心であることはおそらく終わりを意味するし、それ以上に無関心を装い続けることも終わりを早める。
彼女の夫の言葉の多くは彼女の心に届かないが、彼女が夫を諦めない理由がなんとなく私には分かる。まったくアサッテであっても、ときどき本心からの突っ込んでくれる人を、諦めるということはそんなに簡単なことではない。