『湖水浴』牧田真有子

群像の巻末の鼎談評では前月の文芸誌掲載の数ある創作作品で3作品だけが選ばれるのだが、何故かこの作品が選ばれていて、順序からいえば新人賞一作目の谷崎由衣でもおかしくないのにと不思議に思うのだが、読めば納得。この作品の方がはるかに面白い。しかも語るべきものがありそう。また、片方はアンチリアリズムであって好き嫌いはあるし比べる物でもないのかもしれないが、話の構成などに凝っているのは牧田作品の方であることは間違いないだろう。牧田作品のほうが読みやすいにも関わらず、読み応えがあるのである。
このような作品を書ける人が新人賞ではなく奨励賞とは、まったく浅田彰島田雅彦もどこを見てるんだという気もしないではないが、辻原登に見る目があって幸いである。


この作品のようにいきなり死者から手紙が届くなんてのは、まるで娯楽小説のようで反則だろうという人もいるかもしれない、とくに純文学プロパーな人において。しかし世間が純文学に求めるものとはちょっとずれている私はこれは大いにアリだと考えている。村上春樹が昔のエッセイで「読者をグリップする」事について重要視して語っていたが、この作品のように冒頭に謎を持ってきて読者を掴み、ページを先へ先へとめくらせようとする志はとても歓迎したいし、なおかつその試みはほぼ成功している。しかも最後まで。
また女性作家でありながら、そして新人でありながら、男性を主人公にしてそれほど違和感がないというのも見事である。昨今の男性劇作家連中による主婦主人公ものとは雲泥といっても過言ではない。
そして一般的な技術面でも、風景描写の喚起力は充分あるし、心理描写の分量、比喩的な記述も適量にして富んでいて(とくに洪水の描写など)、なおかつちょっと気の利いた「うまいな」と思える文章もある(読書していて、こういう文章に出会えるのもひとつの楽しみである)。題名となっている湖水についてはまあ普通のレベルなのだが、夜の公園とそこでのダンス、ひとりMDを聞く大人しげな女性などはイメージしやすく、ダンスなどは目に浮かぶようだし、ああこういうマイペースな感じの若い女性っているよなあ、と思う。最初にこの女性の造形を「自分」と比べるかたちで少し触れたうえで、ちょっとタイミングのずれた会話であるとか繰り返し用いることで、そのへんが生きてきているわけで、この女性のキャラとしての存在感を上手く出している。いやこの女性に限らず主要な人物に関しては、それぞれがきっちり存在感をもち、もつがゆえに他者と対峙したときのやや緊張した感じが維持されている。
なんかべた誉め状態なのだが、まあこれは私が「書かない」人で、読みが浅いからなのかもしれない。ではなぜ最高評価でないかというと、これも私の読みが浅いせいなのか知らないが、後半にかけての心理でいまいち共有しづらい、分かりにくいものがあった事がひとつ。ちょっと強引な、作者の頭の中で閉じてしまっているような理屈のように思える記述が多い。何度読み直してもストンと来ないのだ。例えば、手紙を読んでから投函することがなぜ許すことになるのか、などよく分からない。これらは、もう少し言を尽せば何とかなったという事なのかどうかも迷うところで、たとえば、主人公の姉の話がなぜ自分(手紙の女性)の自己を発見したことになるのかについては、おそらく同化ではなく姉との対比において自分を規定できたということであって、だからこそ、自分がイジメた事になってしまった女性の兄と一生添うような罪悪感は負えないという事になり、別れと湖水へなんだろうけど、これなどはもう少し記述のウェイトを多めにして、解釈させるのではなく読者に提示しても良かった感がある。
つまり許すとか許さないとか、罪悪感のあるなしとか、この小説のいちばんテーマ的な部分がどうにも分かりにくい。ひとりよがりなのだ。これが自殺する人間の病的な理屈としての分かりづらさなら話はまだ分かるのだが、ぜんぜんそんな類のものではない。
ところで、若い人の小説にありがちな人が簡単に死んでしまうことについてここで少し言うなら、たしかにこの小説でも、これだけ理路整然とした文章の手紙を何日にも渡って継続的に書けるような人物が死ぬのだろうか、という疑問はあって、明らかに「死」へのスピードを失っているし、「病」の匂い=他者が踏み込みにくいような偏執的な思い込みが全くない。主人公の姉の死のスピードが一方にありながら自分はなぜ何日も手紙を書いて振り返らねばならないのかとか、なぜスピードのあるダンスを捨て静謐な湖水につかる事になってしまうのかなども、理由があくまで姉との対比にあるからなのかもしれないが、それが自死のリアリティをも欠くことにもなってしまっている。こんなに人間は考えてそして何日にも渡って準備して死ねるものなのか、という。
ただ、この小説くらい構成への意思が感じられるレベルであれば肯定しておきたい、と思う。「死」を物語に利用するなら、このくらいのレベル以上でないと、その安易さは帳消しにはならない、という事にしておきたい。
話を戻すと、主人公が、姉のことを一気に重たい存在と認識しなおす所も、そんなもんだろうかという気がしないでもない。なぜなら、姉が死ぬ間際になって『なるほど』などと、許したのかどうでも良くなったのか主人公に告げるような出来事はそれ自体この小説の一番のトピックであって、退屈しのぎとは思えない重さと面白さを同時に最初から持ってると思うからだ。これほどの出来事を、主人公が心理的にスルーしてきたというのは、少し腑に落ちないところ。しかもこのような事をスルーしてしまうほどの感性の違いがある男性に対して、死んでいった女性が手紙を沢山書くほどの親密な感情を持つものなのか。
それから最後の一行の事を最後にいっておきたい。このセリフ「やっと来ましたね」(←だったっけ?)ではこの色の薄そうな病弱な彼(手紙女性の父親)がモノをずっと見通せる人、物事の前後を考えられる人になってしまっている。その意外さの面白さ、純文学的な座りの悪さ、解釈を後に残すところ、を考えての事なのかもしれないが、かえってこの小説の一本入った筋をゆがませるかのような気がしないでもない。


総じて言うと、肝心のテーマ的な部分が大分ボケてしまった部分はあるが、キャラの存在感が何よりあって、リアリティがある部分は強烈に人間を感じさせるのだから、それだけで充分に合格点の良い小説だと思う。気になって過去に読んだ彼女の前作の自分の評を見たら余り悪いことが書いていない。次回作も楽しみだ、という事である。


7/12追記
なんかしっくり来ない事書いたなとモヤモヤしつつ、この作品に関する群像の鼎談を読んだが、奥泉氏の評価が低い。まあ、氏のこれまでの努力からすれば歯がゆすぎるんだろうなあ、とある意味納得。
で、読みながらいろいろ考えてたんだけど、死んだ女性が、昔イジメで自殺した女性の兄と別れる事にしたのは、そのまま付き合い続けると常にイジメた女性のことを思い浮かべざるを得ないという意味で、これは罪悪感の拒否という解釈をしたんだけど、そのまま付き合う事が贖罪の意味もあるわけで、別れ=許されることの拒否だよなあやっぱ、と気付いた。
そういう解釈にたつと、この死んだ女性は「許されることの拒否」において、主人公の狂気の姉と並び立つことになる。そして死んだ女性によって許された父親と、狂気の姉によって許された主人公の最後の邂逅へと、つまりそれぞれがつながるわけだ。
これでやっと一本解釈がつながったわけだが、それはそれとして、この小説のモチーフはやっぱそれじゃなくて、鼎談で鴻巣さんが言っていたようにこれは、死に魅せられること、だよなあ。最後の邂逅も、主人公が湖水を訪ねることで死に魅せられる思いを理解しかかったからこそ、成り立ったわけで。
しかしいつまでたっても読みが浅いですね、私。こういうふうに色んな解釈が成り立つからこの小説はやっぱ面白いんだよ、などいうことを自分の読みの浅さを気にせずに言うことができる日はかなり遠そう。