『ニッポンの小説』高橋源一郎

残り2回となって、いよいよ本題にという感じの内容で、マルキ・ド・サド中原昌也を並べ、いかに我々が『近代(的思考)』の呪縛の中にいるか、そして気づかされていないか、を論じている。
いわば、ポストモダン作家としての自らの立ち位置をストレートに直球勝負で書いているわけで、学生運動後何年も沈思黙考してきた人の言葉はやっぱ違うよな、という説得力はある。しかしそれでも疑問に思うのは、こういうふうに近代をそして小説を疑うのなら、いま自らが文学業界の中心位置にいてスポークスマンのようになっている事との整合性はどうなのか、ということ。本来ならば、斉藤美奈子との仕事におけるように文学全体を総括するような事をするなら、そういう呪縛を強化するような、あるいは疑問に思わないような作品も仰山出て来てるわけで、時にもっとはっきりNOを突きつけても良いと思うのだが、高橋の口からそういう事を聞くことはあまりない。
これが海の向こうの作家だと、アーヴィングに対する悪口とか高橋はむかし言っていた覚えがあるのだが、国内の作家に対しては何とも曖昧。こういうふうに文壇のなかで自然な付き合いが出来て、俯瞰できるポジションに収まってしまうことこそ、まさしく近代的抑圧に荷担しているといえなくもない。次回の8月号は未だざっとしか読んでいないのだが、「家族」を自然と受け入れることを疑問視するのなら、文壇にも背を向けていい筈。
ネットの隆盛などによるジャーナリズムの大衆化と、その反動(ポリティカルコレクトネスなど)により、徐々に言葉はやせ細り、近代的言語による思考の単純化は極にきていると言えなくもない状況なわけで、高橋の才能と知を認めればこそ残された時間は少ないのではないか、と感じる。すごい責任転嫁な書き方をしてしまったが、とりあえず期待は捨てていない事は表明しておきたかった故。