『ラジ&ピース』絲山秋子

全くもう、舞城作品のすぐ側に掲載されてたから読んだだけなのに・・・・・・。これは2008年発表の文芸作品のなかで最高傑作だろう。って2008年発表の作品の1/10も読んじゃいないのだが。
とりあえず『群像』7月号買うべし。発売日を20日も過ぎて言うのは何なのだが、値段以上の価値はぜったいある。だいいちこの絲山作品だって、数ヶ月たてば1500円くらいで単行本になるはずでそれを考えただけでも今1000円でおつりがくるのはお買い得だろうし、それ以上に人によっては5000、一万、値段に換算できないくらいの作品かもしれないという事だ。
舞台は群馬、主人公は今流行りの言葉でいえば40アラウンドの女性、である。つまり、作者本人にかなり近い主人公である。絲山のようなもともと力のある作家がこういう主人公設定の作品を書いたのだ。悪くなろう筈がない。
比喩は少なめというか殆ど無く、情景描写も、心理描写も必要最小限。ぎりぎりまで削ぎ落とされていて、それはリーダビリティの向上にも役立っている。本を読みなれた人なら数時間で読めるだろう。そしてそれはこの上なく、充実した数時間になるはずだ。
基本的には、これまでの人生でどこにも”居場所”を感じることができなかった女性が、居場所らしきものを得るのかもしれないなあ、という内容の話である。俗っぽくいうなら「自分探し」というのに近いのだが、この主人公はそういう時流に乗ったような行動をこそむしろ軽蔑しかねない人物であり、居場所を積極的に探すわけでもない。だからこそ、主人公の友人である沢音が必要とされるのだが、この沢音がいい。実にいい。イナカのおばちゃん的要素も少なからずありながら、冒険心旺盛で、勢いがあって、恋に落ち易いまさに群馬女性といったらいいのか、そういう存在。あ、これは大久保清事件からの偏見かもしれないが。彼女の存在がまさにこの小説を小説たらしめたと、成立を可能にしたと言っていいくらいの存在ではないか。
じつを言えば、彼女と主人公との会話の一つ一つが余りにも面白いので、一度全部読み終わったあとに彼女の出てくる所だけ数回読み返してしまったくらいである。読み終わったあとに、なんか今ひとつしっくりこなかったのでという理由ではなく、もう一度ただ読みたい味わいたいということで読み返すことなど私の場合まず無いことで、そういう意味でもこの作品はかなり際立っているという事になる。とくに前橋と高崎との比較の話になっての前橋をあしざまにいうときの沢音のセリフが何度読んでもいいのだ。高崎では道でクルマを洗わないの、と言われたときの「しぃねーよ」とか、「前橋なんて宇宙だよ」なんてセリフも最高だし、主人公のクルマの運転を誉めたときの「間違いねって」(→間違いないよ、の意)もシンプルさがいい。
また主人公女性は地方FM局のDJ、昔ふうにいえばパーソナリティ、J-WAVEでいえばナビゲーターをやっているのだが、ヘビーリスナーである前橋在住のオヤジもいい。地方在住でマイペースにやっている中高年男性の味がよく出ているというか。よく地方はお仕着せがましいとか干渉的といわれるが、じつはそんな事は全くないのだということが良く出ている。むしろ彼はでしゃばらず大人であり、自分を前面に出すことなど無い。蛇足的にいえば、都会の人が不干渉であるのはこのような人たちがそれぞれ地方から上京して暮らしているからであって、東京的な東京、例えば下町などはイナカと同じくらい干渉的なのだ。しかし、話を戻すなら、彼が案内する群馬はとても魅力的で、それを描写する絲山の筆もそのオヤジの行動と同じくらい無駄がない。


私がもう一つこの作品に惚れた要素を挙げるなら、北関東が舞台である事だろう。いま、いちばん地方らしい問題を抱えた地方というのは都会から何時間も半日以上も離れた遠方ではなく、東京から2時間3時間、日帰りしようと思えばできるが疲れるんでしないくらい、の距離のこのような場所ではないのか。つまり高知競馬や岩手競馬は存続しているが、足利や宇都宮はバタバタと消えてしまったという事。私はこの日本において、純文学の書き手としてこのような場所を描かずにいるということは、片手落ちではないか、とすら思うときがある。東浩紀現代日本の「片方」であるラゾーナ川崎を舞台にしたが、その一方が殆どないように見えるのだ。
これらの地方ではそれまで曲がりなりにも栄えていた場所が、交通の利便性の拡大=新幹線、高速道路の開通とともに都市や、ロードサイドのSC(ショッピングセンター)に人を取られ空洞化した。この作品でも前橋の商店街のゴーストタウンぶりが描かれるが、私の故郷の商店街も全く一緒で、見違えてしまうくらい何もなくなってしまった。コンビニ一軒以外は皆シャッターである。そしてこれは問題だとか、どうにかしなければ、という雰囲気など感じさせずただ淡々と見たままを感傷を交えずに絲山は描く。ああこうなってしまったんだなあ、と。こういう空洞化など簡単にどうこうできるものではないことをよく分かっているのだ。その事は話のほかの部分、主人公は最終的に高崎に住みつづけ、また、前橋にいたヘビーリスナーは栃木にいってしまう事によっても示されている。ただしそれは、ただ打ち捨てておくばかりではいいという気持ちまで行かない。来て、そして見てしまうのである。沢音が戦時中の日本を描いたDVDを見てしまうように。
そう、彼女と沢音は対象が異なるだけで、失われた物を想うことにおいて実は通低している。DVDに出てくる昔の日本人も、ゴーストタウン商店街も、主人公女性も、現代の日本では居場所を奪われた人たち物たちなのだ。そしてそれらを想うことはたんなる感傷ではない。おそらく主人公女性だって、前橋の男性との縁を完全に切らすことはないだろうし、また、東京の昔の男への思いを消去しようとし、何と行ってもクルマで20分ばかしの高崎へ住みつづけるのである。
繰り返しになるが、読むべき作品である。とくに都市での孤独と、それと地続きの寂しさをイナカの商店街に感じ、佇んでしまうような人はとくに。そしてゴーストタウンとなったのは天災などでは全くなく、我々が都市に出ることによって、つまりそれは自ら選択した事態なのだという事などを頭に置きながら。


リーダビリティについて言及したが、この小説にも小説らしいカタルシスを得る瞬間は用意されていて、ラストのほうで主人公が、沢音に迎えに来てもらうところ、その会話のやりとり、事物の描写すべてが心のある部分を熱くさせる。待つ主人公の目に沢音のクルマが現れた所の描写を2回目に読んだとき、私は人前でもあり涙こそ流さなかったが、それに近い気持ちになり、しばしそのページを開いたままでいた。