『楽観的な方のケース』岡田利規

今までこのブログでは(オトコの)演劇屋の書いた小説に好意的な評価をしてこなかったのだが、この小説も例外たりえなかった。まったく起伏のない日常の描写に終始である。
心理描写でそこそこ深いところを突いているのかなあというのが、今までの演劇畑の人に比べてあるにはあったのだが、大差という程のものでもない。そしてその深さも、題材の底の浅さできっちり帳消しになってしまっている。パン屋がどうだのシュークリームがどうだの、小麦の値上げがどうだのというのが話題の中心なのだが、この内容のどうでもよさ加減は、たとえば引きこもり青年の日常を描いた小説と大差ない。
それにしてもなぜこうも揃って、主人公が女性というか主婦というかその辺なんだろうか、演劇の人の小説は。しかも一人称の。青年中年男性では、旧来的なワタクシ小説っぽくなってしまうのを嫌ったとか?だとすれば、最初から正面突破の放棄というか逃げの一手という感じなのだが、きっと馬鹿な私には分からない理由でもあるのだろう。
ひとつ特徴として、一人称俯瞰小説というか、変な記述の仕方をしていて、「私」の心理描写のあとに「彼」の心の中まで記述されている。たとえば、"私は〜と思った。彼はそんなふうには思っていなかった"というふうに。そしてまたそれにしたって、描写の比重はそれほど彼にも傾けられているわけでもなく、あっさり追加される程度で「俯瞰」というほど正確なものでもない。(だいいち他の登場人物、パン屋などの心理は出てこない。)
確かに一般的な一人称主観小説だって、不自然といえば不自然といえるような、完全に脳内の記述ではないくらい整理されているのにあたかも脳内の響きをそのまま描写しているような所はある。だが、多くの作家はそんな事百も承知で引き受けているのだろう。それを引き受けず、このような小手先の工夫で一人称小説の不自然さを炙り出したところで、あまり意義を感じないし、もちろん面白みなど少しも感じない。